第十一話




 忘れていた衝撃が、の頭を殴りつけた。

 自分の隣で苛立ちを隠しきれなくなってきている裕介に気づいた彼女は、Tシャツの背中を引っ張りながら牽制する。そして会話相手へと愛想笑いを浮かべた。裕介は何か物申したそうだが、口を開こうとするたびにが背中を引くため、複雑そうな顔をして噤む。相手に気づかれないよう、裕介に笑顔を作らせたいがために背中をくすぐるだったが、かえって真っ青になってしまった。その様子に愛しさを覚えたのか、会話相手が背を向けて去った後、つい吹き出してしまった。

 「気持ち悪ィことすんなショ、

 ため息をつきながら自身の背中を撫でる。少し猫背になったその身体の頂点へ、は手を伸ばす。玉虫色の髪を撫でると、頬は紅くなり、抵抗こそしないものの、眉間に皺を寄せた。子供のように扱う彼女の様子が不服なのだろう。一方で裕介は、先ほどの相手に対する反応が、実際に子供じみたものだったと反省していた。に比べれば、彼はまだまだ子供だ。

 とはいえ、恋人を“気持ち悪い”と評されて飄々としていられることが大人だと言うのだろうか。裕介は心の(もや)を薙ぎ払うように、後頭部を撫でるの手に身を任せた。


 さきほどふたりと話していた女は、裕介のファンだ。

 ロンドンの小さなファッション雑誌でOrder Design RENの特集をすることとなり、今日はその撮影をしていた。カメラマン一人とアシスタント一人、雑誌編集者一人、裕介とのみの小さな規模のものだ。それを終えて、裕介は一足先にスタジオから出てきた。衣装から着替え終わった裕介がの元へ向かうと、雑誌編集者と話に花を咲かせていたのだ。学生時代からの友人らしい。裕介はまたひとつ、過去のを知った。楽しげな顔をしている女ふたりの邪魔をするのも悪いと思い、とりあえず飲み物でも買おうと外へ向かったところを、一人の若い女性が待っていた。それが彼のファンだった。裕介と同じ十九歳、近くの大学に通っていると言い、インスタグラムを見て好きになったのだと熱弁した。一ブランドの専属モデルとはいえ、まだ駆け出しの裕介にとっては貴重なファンだ。握手をしてぎこちない笑顔を浮かべ、彼女の愛のメッセージを聞く。最初は、ただ裕介を賛辞する内容やモデルとして他で活躍する予定はないのかなど、月並みなものばかりだった。とはいえ、質問に対してどこまで答えて良いものか分からなかった裕介は、企業秘密だと繰り返した。その答えにも不満ひとつ言わず、対応して握手してくれるだけで嬉しい、そう笑う女は純な表情をしていた。

 ところが、が後ろからドアを開けて裕介の隣に来た瞬間、女の顔は鬼のようになり、言葉は罵倒に変わった。

 「あなたがさんですか? 本当に付き合ってるんですか? 十歳以上も年下の男の子に手を出して恥ずかしくないんですか? 世間一般で見たら気持ち悪いことですよ。エフェボフィリアの年増女。恥を知れ。裕介を上手く騙すための言葉を学ぶだけで年を重ねただけの薄っぺらい馬鹿な女がどうして裕介の隣にいるのか分からない」

 次から次へと湯水のように罵詈雑言を放つ。最初は呆気に取られていた裕介が、次第に顳顬(こめかみ)へ青筋を立て始めたことに気づかず、女は真っ直ぐにを見て怒号を浴びせる。一通り言い終えると、息を荒げての反応を待った。愛想笑いをしたは、うちのモデルを好きになってくれてありがとう。これからも応援をよろしくお願いします。そういった内容だけを告げる。あくまで自身への罵倒については触れない姿勢だ。女は敵わないと思ったのか、裕介に向かって「早く目を醒まして」と言うと背を向けて来た道を戻っていった。


 裕介の頭を撫でながら、今後ああいうファンが増えるだろうけど怒ったりしないように、と釘を刺す。裕介が「あんな…」と言い始めるも、はその言葉に口を挟む。あんなファンならいらないなんて言えるほど、モデルとして一人前なのか。そう聞かれて裕介は深くため息をついて、「長すぎるっショ、この道……」と小さく気弱に呟いた。自身で決めた道と言えど、他はないのかと意思が揺らいでしまう。それを見たが不安そうに表情を曇らせると、「あ、いや、だからってやめるワケないっショ!」と焦りながらも弁明する。わざと言わせてしまったかのようなその言葉に、は苦笑する。ダメだと思ったらすぐに離れていい、などとよく言えたものだ。そう小声で自嘲したが、裕介の耳には届かなかった。

 裕介の頭から手を離すと、中へ戻って少し打ち合わせをしようと促す。飲み物を買うつもりだったことを忘れていた裕介はそのことを伝えるが、出版社側が用意していると聞き、そのまま戻った。ドアを開けると雑誌編集者が青ざめた顔でを見る。いつもあんなことを言われるのかと問い詰める様子から察するに、おそらく女の声が聞こえていたのだろう。初めてで驚いたところだと笑うを、彼女は抱きしめた。そして、私は良い恋だと思う、だってあなたも彼も輝いているから、と励ました。


と裕介は周囲に恵まれている。記者の彼女もそうだが、廉もアルバートもケイトもカメラマンたちも、ふたりの関係を悪く言う者はいなかった。モデル事務所についても、モデルたちを守るための言動だと理解できた。ゆえに、この年齢差の恋について、一般的な見解がどのように映るものなのか、感覚が鈍ってしまっていた。先ほどの女は、自身に向けられた私怨だ。それでも、言っていることは完全に否定できない。世間一般から見たら、十以上も離れた青年に手を出すのは気持ちが悪いと思う者もいる。騙していると取られても仕方がない。とはいえ、これほどまでに暗い感情をぶつけられたのは始めてだった。彼女のことは、の脳裏に強く焼きついた。



 そのせいか、その日の夜、の夢にまで女は現れた。厳密に言えば、彼女によく似た女の集団だ。しかし、人の形状をしていない。モンタージュ写真がそのまま立ち上がったような、奥行きのない姿をした者たちだ。目、鼻、口、それぞれが異なる写真から出来ている。目が例の女に似ているものもあれば、どこかで見たような、誰ともつかない見た目の者もいる。つぎはぎで怪物のような女たちは、間断なくを責め立てた。彼女たちに気を取られて気づかなかったが、空を見上げると雲ひとつない快晴が広がっている。足元に視線を落とせば青々とした草原が果てしなく続く。不気味な造形の女たちとは裏腹な、長閑な光景。

 左を向くと別の女。右を見ても他の女。黙って愛想笑いをしていれば、いずれ飽きるだろうと放っておいた。なりの処世術だ。しかし、いくら待てども彼女たちの口が止まることはなく、(らち)が明かないと判断した彼女は、背を向けて走り出した。だだっ広い草原を駆ける。どこまでも見晴らしが良く、数キロ先までは平坦な道が続いていることがわかる。季節は春らしい。少し先に白いゼラニウムが咲いており、の鼻孔をくすぐってくる。洋服も白い長袖のワンピース一枚だ。よくある形状の、一般的な、オーソドックスなシャツワンピース。女たちから逃げるの足元をスカートが踊る。いくら逃げても、彼女たちは足音も立てずに追いかけ、を責め続けた。

 恥ずかしくないんですか? 気持ち悪いですよ。彼に悪いと思わないの? あなたみたいな年増が。気持ち悪いですよ。恥ずかしくないんですか? 恥を知れ。

 壊れたレコードのように、彼女たちは同じ言葉を繰り返している。平坦な草原の中で、先ほどまでは何もなかったはずの場所に、一枚のドアが、出現した。の目の前だ。思わず足を止める。夢の中だからか、長く走ったにも関わらず息は上がっていない。

 ガラス張りなのに、開けた先が見えない、大きなドア。高さはの身長の倍近くある。幅は両腕を目一杯広げてようやくとどくほどだ。真っ白な翼がドアノブのように水平に取り付けられている。その高さは、ちょうどの手のところにある。これほどの大きな扉が自分の力で開くのか、疑問に思いながらも、導かれるように羽へと手をかけた。房々(ふさふさ)とした感触が届く。その羽をグッと引けば、大きなドアはいとも簡単に開いた。しかしその先にいたのは、先ほどと同じ女たちだ。青空も変わらない。そして同じように口を開く。

 大人として恥ずかしいって自覚あるでしょう? 気持ち悪いって分かってるでしょう? 彼に悪いんだからやめなさいよ。分かってるのにどうして離れないの? おかしいでしょう? ねえ、あなたたち、先生と生徒かしら? そのくらい年が離れているわ。不釣り合いよ。まるでタイプが違うじゃない。あなたみたいなどこにでもいる女が彼となんて。交際を止めないの? 彼の優しさに甘えているだけじゃない。ズルい大人、だなんて言って、どっちが子供、かしら。あら、私たちの言葉に傷つくくらいなら最初から諦めればいいのに。このくらいでいちいち引っかかってるの? このくらいで。このくらいで怯むなんて馬鹿な女。最低な女。

 今度は繰り返しではない言葉がを襲う。ひとつひとつが鋭利な刃物のように突き刺さる。絶望に耳を塞ぎ、空を仰ぐと、何もないはずだった青空に、何かが煌々と輝いている。それに近づいてみると、一本の長い蜘蛛の糸だと分かった。終点を目で追うが、丸く穴の空いたような暗闇と繋がっている。その先は見えない。しかしには何故か確信があった。これは救いの糸だ。両手で掴む。身体が、宙に浮いた。暗闇の中をするすると引き上げられてゆく。真っ暗闇で何も見えない空間に入ると、下方にモンタージュの女たちと、あの青い空が見えた。追いかけてきた彼女たちも蜘蛛の糸に手をかけるが、の後ろから伸ばされた長い指が糸の先を引きちぎり、ボトボトと女たちを草原へ落としてゆく。振り向くと、裕介が一糸纏わず笑っていた。握っていたはずの蜘蛛の糸は既に手元からなくなっている。暗い空間に立ちつくす。ついさっきまで足元に見えていた青空と草原の空間は、すでに閉じていた。ただ真っ暗闇の中、裕介とがふたり、いるだけだ。の目には、裕介だけが白くぼうっと光っているように映る。

 「言ったショ。が最低な女なら、オレは最悪の男になってやるって」

 甘い言葉に(ほう)ける。そして、いつの間にか自身も何も身に纏っていないことに気づいたは、少し身じろぎをした。すると、足元にクチナシの花がひとつ落ちてくる。一輪、二輪。やがて堰を切ったように空から大量のクチナシが降り注ぎ、ドレスのようにを、タキシードのように裕介の身体を覆った。その彼の姿が、まるで一輪の花のようだとが言うと、男に“花”はないショ、といつかの言葉を口にした。そしてに近づき、彼女の髪を耳にかけて囁く。

 「オレがガキだからってが責任を負う必要はないショ。ダメだと思ったらすぐ離れていい。……そう言ったら、どうする?」

 そこで電源が切れたように、唐突に夢は終わった。枕には涙の跡がぐっしょりと残っていた。そんな弱気な枕とは裏腹に、は晴れやかな顔をしている。吊り上がった眉と弧を描く口元は、広報のトップらしい挑戦的な表情だ。夢の内容は鮮明に覚えている。戦闘、開始。



 その日の会議中、一年半ほど前に失くなった企画をもう一度立ち上げてみないか、とは廉に提案した。メンズの香水およびデオドラントグッズの展開だ。企画が立ち上がった当時は、しばらく衣類のみでOrder Design RENのラインを進行させてゆく予定だった。ノウハウや伝手のない製造に手をかける余裕がなかったことと、ブランド全体のイメージを司る香りを作るには、ブランドイメージが漠然としすぎていることが主な理由だ。今はふたつ、状況が違う。ひとつは裕介という専属モデルがデビューしたこと。もうひとつは、その裕介宛に、彼をイメージした香水を作りたいという申し出があったことだ。廉と同じく新人で、オーガニックなコスメを手がけているブランドからの声だった。製造や販売ルートなどを含めて彼女が手がけ、こちらが出資することはない。売上のうち数パーセントが裕介および廉の事務所へと入る。ただ、製造した製品のうちのいくつかは店舗で買取販売することが条件だ。とはいえ、数も金額もそれほど多くはない。制作過程の確認についても契約書で丁寧に取り決める予定だ。さらに言えば、このコスメブランドは、最近二十代女性を中心に名前を伸ばしている。悪くない商談だ。そう判断したは、広報宛に届いたメールと企画書を印刷し、会議で提案した。その場にいなかった裕介は、から届いた「この企画が先ほどの会議で通りました。確認お願いします」という業務連絡メールで初めて知った。

 それからというもの、は通常の業務に加え、さらに複数の新規案件をこなしていった。裕介が関わるものもあれば、関わらないものも含め、次々とOrder Design RENの存在を世にアプローチする仕事をこなしていった。何か考えがあってのことだろうと裕介も廉も何も言わなかったが、執念のようなの様子に畏怖を覚えていた。


 件の女はあれからの前には現れていなかったが、裕介の大学までは繰り返し訪れていた。その顔を見るたび、何度も湧きおこる怒りを沈めながら今まで通り対応し、ストレスを抱えてはロードバイクで発散する日々を過ごした。ここで足を止められるなら容易いものだと我慢し続けたのだ。裕介は、に言われた通り自分自身がモデルとしては半人前であることを弁えている。名前が知られる前から、彼女のように声の大きな一般人に悪いイメージを吹聴されることは避けたかった。それでも、ほぼ毎日のように別れないのか、早く目を醒ましたほうがいい、あの女がいなければ貴方はもっと輝ける、との批判を受け続けるとフラストレーションが溜まった。今日もまた、大学が終わって事務所へ向かおうとすると女が待っていた。いつものように裕介の賛賞から始まり、への批判へと移る。堪忍袋の緒が切れた裕介が、ついに怒鳴り声をあげそうになった刹那、彼の前に一台の車が停まる。そこからが降りてくると、若い女は身体中の皺を顔へと集めたような表情を見せた。裕介はオロオロとふたりを見やる。女同士の距離が一メートルになったとき、は一つの紙袋を差し出した。怪訝そうに女がを窺う。袋の中身は裕介がモデルを始めてから作ったパンフレットや雑誌の特集だと言うと、女はひったくるようにして袋を受け取った。が気に入らなくとも、裕介の情報は微塵も逃したくないらしい。ずっしりとした重みが、彼女の両腕にかかる。そのほとんどは、が担当したものだ。中には彼女が獲ってきた仕事もある。

 は、裕介も自分自身も、生半可な気持ちで仕事をしているわけではないことを知ってほしい、と女に告げた。袋の中身との顔を交互に見、裕介に目をやる。

 「そもそも、モデルのオレは、がいなかったらココにいないっショ。キミが見てくれたインスタグラムの投稿方法も、この人に教えてもらったんだ。オレを騙す薄っぺらい女だって言ってたけど、それは有り得ねェ。最近じゃオレより仕事のほう優先してるんだぜ」

 裕介が苦笑すると、も苦笑する。それはごめん、とが日本語で返すと、女は紙袋を地面に叩きつけて去っていった。ダメだったか、と紙袋を拾い上げて土埃を落とす。これだけ仕事してれば、一般人の悪評ひとつでこの業界から仕事がなくなることはなさそうだけど、と明るくサッパリとした表情で笑うと、裕介へ車に乗るよう促した。

 事務所に向かう途中、なぜあの場にいたのかと裕介が聞けば、は指を三本挙げた。一つは、そろそろ裕介が限界になる頃合いだと思ったから。もう一つは、私が薄っぺらい女じゃないことを彼女に証明する必要があると思ったから。黙って地道に仕事をこなしていくつもりだったが、まだまだ子供だ、自己主張してしまったと笑った。負けず嫌いで勝気な目の輝きに、裕介の肌が粟立つ。かつてこの車中で、が年齢よりも若く見えると話したことを思い出した。

 三つめをなかなか明かさないだったが、赤信号でゆっくりとブレーキをかけると、前を向いたまま、ただ一言を放つ。

 もう逃げないと決めたから。

 そう語る瞳は、強い。




イメージBGM:Chara「Crazy for You」





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