第十話




 「、雨降るらしいからこれ持ってけっショ」

 テレビを見ていた裕介は、先に外へ出たを寝間着のまま追いかけてそう言うと、折りたたみ傘を手渡した。雲は低く、灰色の雲がもくもくとふたりの頭上を漂っている。は空を仰ぎ、雲の黒さを確認するように全体を見渡す。頷きながら裕介に礼を告げ、緑色のそれを受け取った。取っ手の部分だけ赤色をしたところが裕介のようだと言って、つい最近購入したものだ。手にした傘をそのままカバンへ入れると、雨が降る前に帰るよう裕介を促す。すると、彼はキョロキョロと周りを見て誰もいないことを確認し、角度を変えて三度、キスをした。まぶた、頬、唇。それはメープルシロップの味がした。さきほどまで食べていたパンケーキのせいだ。はくすぐったそうに笑うと、裕介の口元にあるホクロに唇を触れさせた。歯磨き粉の残り香が、裕介の鼻孔をつく。彼は嬉しそうに笑い、もう一度へ近づく。その後ろから、ガコン、と音がする。振り向くと、いつの間にか出てきていた隣人のケイトと目が合った。彼女は今しがた開けたポストの中身を取り出すと、「いいのよ、続けて」と言い家へ戻っていった。裕介は真っ赤な顔をして長い腕を虚空に彷徨わせたあと、諦めた顔をして腕をそろそろと落とし、を見送ると、彼女の家へと踵を返した。

 今日、最初の講義はあと二時間後に始まる。それまではの部屋でゆっくりしていようと、彼女が作ってくれたパンケーキの続きをのんびりと咀嚼する。食べ終えると、しばらくテレビを意味もなく眺めた。数分後、腹がこなれたのか立ち上がると食器を洗い始める。それが終わると手を拭き、寝間着から服に着替えるためにの部屋へ行く。彼女の部屋には、裕介の服が数着入った小さなキャビネットがある。暑い夏、前日に着ていた汗まみれの洋服に袖を通すのは抵抗があるだろうと彼女が自ら用意したのだ。裕介は「んな場所とっちまうようなことしなくていいショ」と断ったが、次にの部屋へ来たときには、すでに部屋の一角に佇んでいた。今では下着とTシャツが三枚、ジーンズが二枚入っている。そこからyagiの白いTシャツとアクアブルーのジーンズを取り出すと着替え、洗濯機に寝間着を放り入れる。部屋に干すにも今ひとつな天気だ。そういうときはにメールで「悪い 洗濯物 たのむ」と送るのが、ふたりの当たり前になっていた。裕介はいつも通り送信する。すぐにから返信が届いた。親指を上げた手の絵文字が一つ。

 雨が降る前に近所を軽く走ってから大学へ向かうことにした裕介は、念のためにレインコートを羽織って家を出る。びしょ濡れのまま講義室に入ることは、紳士として許されない行為だからだ。くも太郎がぶら下がった鍵を取り出すと鍵穴に差し込み、少し回す。ガチャリ、と音が鳴った。

 この合鍵を作ったのはだ。七月七日、裕介の誕生日に、プレゼントのおまけとして、バースデーカードの封筒に入れた。渡したプレゼントよりも嬉しそうな顔の裕介に、は苦笑した。彼女が送ったプレゼントはそれなりの高級品だった。何日もかけて選び、数日前から裕介に見つからないよう自室のクローゼットに隠した。それよりも、数時間、数ポンドで作られた鍵を喜ばれると、彼女としては少し複雑だったのかもしれない。しかしそれほどまでに、裕介にとって彼女の心と行動は莞爾たるものだったのだ。薄いそれを無くさないよう、裕介は、出国前に坂道から大量にもらったくも太郎を一つ与えた。ニッコリした表情のマスコットは、封筒の中身を確認したときの裕介にそっくりだった。

 ロードバイクに跨った裕介は、の家の周りにある勾配を数回往復した。遠くの空がさらに黒くなり、雷の音も聞こえた。彼は北からやってくる雨雲に追いつかれないよう、慌ててペダルを踏んで南へと加速する。最初は下り坂。その後平坦道が続き、大学の近くに入ると斜度四パーセント程度の坂が数キロあるコースだ。いつもよりも急いだせいか、弾んだ息を整え、自転車から降りながら大学内へと入る。その後ろ姿に数人の女生徒が駆け寄ってきた。モデルとしての裕介のファンである女性たちは彼を取り囲む。未だに慣れないながらも、優しく内弁慶な性格のせいで邪険にできない裕介は頬を赤くしながら手を振りつつ、講義が始まってしまうと口にして、小走りに離れてゆく。その後ろ姿を追いかけてゆく彼女たちの姿も日常茶飯事だ。とのロマンスを聞きたがるが、裕介は一切口にしなかった。ファンサービスが悪い、と離れるファンもいたが、シャイなところが可愛らしいと一層彼を好きになる者もいた。

 裕介がモデルとしての仕事をするたび、彼の環境は変化していった。ロンドンの一部でしか有名でないことは確かだが、世に出る写真が一枚増えるたび、評価する者はポツポツと数を増した。芸能事務所に所属しているわけでもない彼を守る者は少なく、大学前で待ち伏せされると避けようがなかった。今のところ大事に至ったわけでもなく、このことについて裕介は誰にも教えていない。なぜなら、彼は知っていたからだ。動物園のパンダは、客からジロジロ見られる。それを理解した上で、未知の扉を開けて飛び込んだ。と変わらず共にあり続けるために。その彼女が気後れしたり不安になったりする情報を与えるほど無神経な男ではない。そして、ふたりが同じであり続けられるよう、黙って努力していた兄の姿も知っている。だからこそ誰にも言わず、ひとりで少しずつ、相手を上手に躱す方法を身につけていった。下手なことをしては兄のブランドに傷がつくということも、その経験の中で学んだ。昔から不得意だった嘘も、徐々に精度を上げていった。



 同じ週の金曜日、仕事を終えたふたりは手を繋いでの家へと帰った。  「遅くなったケド、実家から送ってもらったっショ。去年のインハイのDVD」  サコッシュから一枚のDVDを取り出して裕介が言う。以前、は裕介が本気で走っている姿を見たいと言った。その約束を一つ、果たした。インターハイの季節が近づいてきているからか、気を利かせた母親は昨年のインターハイのものを選んだ。ヒルクライムでも何でもよかったのだが、その試合には裕介も思い入れがある。

 さっそくプレイヤーにディスクをセットしながら、は紅茶とショートブレッドを用意する。映像が始まり、ハラハラした展開が続くとはこれで本当に優勝するのかと不安がった。裕介は「まァ、見てろっショ」と右の口角を上げる。

 数時間後、坂道がゴールの門を最初にくぐったのを見て、は歓声を上げた。そのあとに黄色いジャージを届けた裕介と今泉が、全身で喜びを示す。満面の笑みで坂道を抱きしめ、よくやったと褒め称える。その後、田所が着き、リタイアした金城と鳴子が合流し、表彰台の映像へと切り替わった。そこに映っているのは、号泣している裕介だ。よほどめずらしかったのか、撮影者である杉元がズームをしてアップで撮っている。

 「あっ、やめっショ!!」

 早送りしようとリモコンを掴みにかかる腕を、はギュッと握って阻止した。今よりまだ少しあどけない裕介の泣き顔を眺める。最後に改めて大きな拍手が鳴り響いたかと思うと、ズームが引き、六人の姿が映し出される。数秒後、ブツッという音とともに真っ黒なモニタへと切り替わった。隣に座る裕介が顔を赤くして口を曲げている。慈しむように、はその顔を斜め下から覗き見る。

 「んな目で見るなっショ」

 それでもは裕介をじっと見る。そして、嘘が上手くなったことを指摘した。感情を隠すのが上手くなったように見える、と。彼の瞳がほんの少し泳いだ。半年前であれば、左右に大きく揺れていたはずだ。それを思い出したのか、はふっと切なそうに笑う。そうさせてしまったのは彼女か、それともただの、よくある青年の成長か。

 「嘘が上手く、ねェ……。悪いことばっかじゃないショ。ケド……なんつうか、持ってたモンが離れてくみたいな感覚には、まだ慣れねェな」

 そう語る裕介の表情は、既に大人の男性だ。彼が言う、持っていたもの。それは素直さや愚直さ、幼さゆえの、真っ直ぐなもののことだろう。にも経験があったのか、何も言わずに頷いている。分かるよ、などとは言わない。彼と彼女は、重ねた経験が違うのだ。年の重ね方が違う。共感できると軽率に口に出してしまえば、裕介は少し機嫌を悪くしたかもしれない。そういうとき彼は、何も言わず、ジトッとした視線でを射る。だから、頷くだけにとどめた。で、大人の女として成長してきたのだ。言わぬが花。そういうものがあることを知っている。



 七月の最終週、裕介の元へ坂道から一通の手紙が届いた。そこには、裕介のいないインターハイが不安だと書かれていた。

 「『不安』か」

 裕介は坂道の文字を人差し指でなぞる。不、安。二文字に指を這わせて、最近の自分と照らし合わせたのか、思い出したように自分を嗤う。

 「忘れてたぜ……成長するタイミングつうのは、変化するときっつうのは、いつもそうだったっショ。そして…答えはいつも同じだ。貫くしかねェ。自分らしさを。それを坂道に教えてやんなきゃいけねェのは───」

 裕介を深いため息をつくとテーブルの上の航空チケットを弾いた。行くかどうか迷っている。仕事は繁忙期の時期だ。シーズンの入れ替わり時期。だから、このチケットのことも、誰にも言わなかった。

 しかし、そんな裕介のソワソワした様子を廉は見ていた。結局行くのだろうと分かっていながら、何も言及することなく、そのチケットの存在を知らないことのように過ごした。裕介がの家へ泊まりに行っている間にコッソリとチケットの日程を確認し、その日に入れていた裕介の仕事をそれとなく調整した。彼なりに、弟へ感謝しているのだろう。実際、裕介は、多少の文句を言いながらではあるが、出ていないも同然のアルバイト代で、よく働いている。


 チケットに書かれていた日の当日、一枚の書き置きをして裕介は日本へと向かった。

 六時間遅れて到着した日本では、蝉たちが大声を張り上げていた。ねっとりとした湿度と温度の高さが相まって、よけいに暑苦しく聞こえる声だ。

 田所の車に乗せられ、危ない運転にヒヤヒヤしながらも、車内のラジオから聞こえた夏の定番曲に懐かしさを覚えた裕介は顔を綻ばせる。かつてよく聞いていたものだ。少し前に、もその曲が好きだと言っていた。成長して変わるものもあれば、変わらないものもある。そんな話をした。そのことを思い出し、無意識に微笑してしまったのだ。それをバックミラーで見た田所は「なんだまだ余裕あんじゃねーか」とさらにスピードを上げて会場へ向かった。


 その翌日の夜、宿敵である尽八と久々の勝負をした裕介は、七曲峠の頂上で腰掛けていた。昼間よりも静かなそこで、汗だくになったジャージのファスナーを下ろしながら、階段に座っている。その隣には、先ほどまで勝負をしていた尽八の姿がある。少し離れた場所に、坂道がペットボトルを二つ手にして立っていた。たまたまここに来たというやわらかな嘘をつくと、坂道は嬉しそうに笑う。

 「巻島さんですね。……やさしくて頼りになって速くて、ボクが知ってる、巻島さんです。よかったです…変わってないです」

 変わった自分を変わらないと言う坂道に一瞬呆気に取られる。人のあしらい方と、軽い嘘が上手くなった。狡賢い成長と変化。裕介は眉を下げる。

 「ハ、そら…ちと美化しすぎショ」

 坂道からレモン水を受け取り、喉を潤す。東堂からは、飲み干すまでは話に付き合えと、根掘り葉掘り近況を聞かれた。音信不通の状態にしていたことを少なからず悪いと思っていた裕介は、聞かれたことは素直に答えてゆく。自転車に乗って、当時のライバルと後輩を前にすると、あの頃のような真っ直ぐな気持ちになれたからかもしれない。

 「例の女性とは?」

 「……付き合ってる」

 「やったな巻ちゃん!!」

 「大人ですね巻島さん!!」

 「おまえらいちいち声がデカいショ」

 「それにしても、あの写真嫌いの巻ちゃんがモデルとはな」

 「クハ、本当にな」

 「かっこいいですー!!!」

 「ということは、写真嫌いは克服したのだな」

 裕介は天を仰ぎ見る。遠い空の向こうにいる誰かを思い浮かべるような瞳だ。坂道から受け取ったレモン水を一口飲むと、キュ、と蓋を閉める。尽八は口を閉じ、裕介の次の言葉を待った。坂道はそんなふたりの様子を、神様でも目にしたかのような表情で見つめている。

 「あァ。……ここまで来るために、変えたんショ」




イメージBGM:キセル「ひとつだけ変えた」





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