第九話




 瞬く閃光の中にいるのは、(レン)がデザインした洋服に身を包む裕介だ。

 真っ白な背景に、深紅のレザーソファ。そこへ腰掛けている裕介は、上下ともに漆黒を纏っている。掛けているソファがただの飾りにならないよう、バランスの取られた衣装だ。素材はシンプルで癖のない、滑らかな生地を使用している。サキソニー素材にメルトン加工を施した、高級感がありオーソドックスなもの。作られているのはジャケットとスラックスのセットアップだ。しかし、単調な作りではない。個性を足されたそのジャケットには、ソファと同じレザーで作られた細いベルトが二本、裕介の痩躯(そうく)を抱くように水平に走っている。その美錠がフロントボタンの機能を果たしているのだ。かっちりと前が閉じられたジャケットの中は、襟元の詰まったタイトなTシャツ。ポリエステルの光沢ある素材が、ジャケットのマットな生地と交わり絶妙なコントラストを生む。黒、灰、白の三色で構成されたイギリスらしいタータンチェックが、首と腰回りにのみ、柄を覗かせている。スラックスはいたってシンプルだが、ジャケットと合わせて煩くならないよう、ベルトレスで履けるようになっている。ベルトループはなく、長めに作られた持ち出しの先には水牛ボタンが鈍く光る。靴はナイロンの艶があるチャッカブーツ。細い紐が形良く結ばれている。  着慣れない装いをした裕介は、ぎこちない様子で少しずつポーズを変え、睨みつけるようにレンズへ目を向ける。すると、カメラマンの隣にいたと目が合った。彼女が手を振ると破顔し、やわらかな眼差しを見せる。その瞬間の優しい表情を、カメラマンは撮り逃さない。それに気づいた裕介は照れ隠しに膝を抱えた。するとが恋人の顔を止めて仕事の顔へと切り替わり、洋服を見せるポージングをするよう指導する。裕介は赤らんだ頬に指先を当てながら、素直に姿勢を変えた。ふたたび光の波が裕介を押し寄せる。

 

 事の発端は、仕事上のトラブルだった。

 裕介は、とは異なるかたちで、破談になった案件があることを知った。連日、疲れた顔で帰宅しては酒を煽る兄の姿を心配した裕介は、何かあったのかと毎回尋ねた。その度に軽くはぐらかされていた。最初は強がりだと認識し、深くは聞いていなかった裕介も、ある一つの事実に気づく。自身に対し、兄が何かを隠そうとしているために煙に巻いているということに。さらに最近、が密かに自らと距離を置こうとしている気配も感じ取ってしまった。裕介から家へ訪ねてよいかと電話をしても、今週は友人と予定を入れてしまっただとか、部屋が片づいていないだとか、それらしい言い訳をして、訪問を許すことをしなかった。ならばとまた海へ行こうと声をかければ、車検で車がないと言い、では近くで構わないと提案すれば体調が悪いと断られる。痺れを切らした裕介が自ら連絡を取ることを止めても、からの連絡はなかった。仕事上での連絡や相談には応じると分かった裕介は、事あるごとに仕事の話をした。その瞳に温もりがあることを確かめるようにを見つめては、話を聞き、説明を受け、満足気にデスクへ戻ってゆく。毎回同じことを尋ねては周囲に何かあったと勘づかれると危惧した裕介は、着々と作業をこなす。新しく湧いた疑問符をに投げ、その回答を落とし込む。こうして実力をつけた裕介は、先輩であるアルバートのミスを何も言わずに修正できるほどの腕前となっていた。すると、それを知ったアルバートが二人で飲みに行こうと裕介を誘い出したのだ。


 いつものパブではなく、少し静かな地下のバーで、ふたりが並んで座る。人はまばらだ。アルバートは自分にとっての隠れ家だと裕介に伝えた。仄暗いカウンターでは茶色い髭をたくわえた細身の中年男性がグラスを磨いており、アルバートを見ると緑色の瞳を細めた。そして黙って後ろの棚からボウモア12年のボトルを取り出す。それなりに通っているようだ。裕介はバーテンダーの男に薦められ、自家製コーディアルシロップのソーダ割りを頼んだ。

 酒の力を借りながら、アルバートは例の件を打ち明ける。裕介には黙っているつもりだったが、モデルプロダクションの手配やインテリアデザイナーへの謝罪で奔走して疲れ切った顔をしている廉と、裕介と距離を置こうとしながらも瞳に熱を込めてしまうを見ていて、いたたまれなくなったのだと言った。事情は知ったものの、解決策がすぐに浮かぶ裕介ではない。宙に視線を漂わせ、首を捻りながら考える。眉間に寄せた皺のあたりに指を置き、小さくため息をついた。

 ここイギリスで、巻島裕介はただの一人の青年だ。有名なチームに所属しているわけでもない。インターネット上で何万人から見られているような人物でもない。ファッション業界に足を踏み入れたのは最近で、アルバイト程度の手伝いしかしていない。彼の影響力は欠片もない。無い無い尽くしだ。彼個人にできることは限られている。しかし、実家の財力に頼るなんてもってのほかだ。それで解決できるのであれば、とうに廉本人が行なっている。自身のブランドだと胸を張って言えるように、安い賃料の事務所で、自ら手に入れた仲間と仕事をしているのだ。思案する裕介に、アルバートが声をかける。

 「この件について、四つほど解決策がある」

 「ほぉ……随分あるんスね」

 「一つ目は、さんが事務所を辞めることだ。モデル事務所に彼女が辞めたことを告げれば、話が戻る可能性は大いにある。その場合、広報の仕事に回るのはおそらく裕介だろう。そのつもりで今、さんは色んなことを教えてくれている。違うかな?」

 思い当たる部分があったのか、裕介は口を噤む。実際、裕介がこなしてきた仕事のほとんどが、広報に関係する案件だった。そうなるよう、業務を割り振ったのはのほうだ。裕介の身についた能力は、がしてきた仕事を引き継ぐとなった場合に必要不可欠なものばかりだった。

 アルバートに聞こえないほど小さな声、そして日本語で、声に苛立ちを混ぜながら「そういうことかよ」と裕介は呟く。BGMのジャズにかき消され、聞こえなかったアルバートは話を続けた。

 「二つ目は、新しい男の広報を雇うことだ。中途採用として、即戦力のある者を入れる。ただ、これはあまり現実的じゃないんだ。時間も金もかかる。そこにコストをかけるよりは、作るものに費用をかけたい。それに人件費のことを考えると、やはり一つ目に戻ってしまう。広報は一人で充分だ。一つ目も二つ目も、さんが辞めることで成立する解決策ということだ。ということで、提案しておきながら、できればそれは避けておきたい。私も廉も、彼女がビジネスのパートナーとして素晴らしい人物だと知っているからね」

 裕介は自分が褒められたかのように誇らしげな笑みを浮かべる。

 「簡単なのは三つ目だ。別れればいい」

 その言葉を流し込むように復唱した裕介は、徐々に顳顬(こめかみ)の血管を浮かび上がらせる。

 「んな中途半端な気持ちでいるワケないショ!!」

 突然の大声に、バーテンダーが少し身体を浮かせた。アルバートはというと、答えが分かっていたかのような表情だ。

 「知ってるさ。そんな壊れやすい感情じゃないことくらい」

 「じゃァ……」

 裕介が何かを聞くよりも先に、アルバートが口を開く。

 「そこで、四つ目の選択肢だ」

 両手を裕介のほうへ向けて、山岳賞でも獲ったかのような笑顔で言う。

 「裕介がモデルをやればいい」

 「へぇ!?」

 「そもそも今回の企画は、新人同士っていうところがコンセプトだったんだ。まだ無名の若手同士が集まって、業界の(しがらみ)がないからこそできる新しいことをやろうって企画さ。名前も『brand new ONE』ってタイトルでね」

 水を得た魚のように、活き活きとした声で話を続けようとするアルバートを遮って、裕介が尋ねる。

 「いや、それは分かるけど、どお…どうしてオレがモデルっつう話になるんスか」

 「今モデルが足りないって話になってるからだね」

 「適材適所って言葉があるショ、別のモデルに頼めば……」

 「それが今できないから、ボスが困ってるんだ。例のモデル事務所が他のプロダクションにも今回の件を横流ししててね。それがどうも(こじ)れてこの業界に伝わってしまっているんだよ。要は、うちから持ち込む案件が全体的に警戒されてる。他の件についても、担当がさんだと伝えると、理由をつけて断られることが増えてきた。まぁ、これから売り出そうとしている新人モデルにスキャンダルや枕営業の印象がついてしまうと困るという言い分も分かるんだ。私たちにとって洋服が大事な子供であるように、彼らにとってモデルは大事な子供だからね。そして……そういったことが重なって……今朝、さんはボスに辞表を出した。裕介が、私の仕事まで面倒を見られるほどに成長したから」

 裕介が思わず椅子から立ち上がると、ガタン、と大げさな音が鳴った。バーテンダーと他の客は一瞥したのち、視線を元の場所へ戻す。アルバートが裕介の腕を軽く叩き、座ることを促す。力なく掛けた彼の瞳が虚ろになっているのを見て、眉を下げて微笑する。

 「まぁ、その辞表は廉が破って、私がライターで炙ったんだが」

 おどけて言うアルバートの口調で安堵したのか、裕介の顔に血色が戻る。

 「とはいえ、そろそろケリをつけたい案件になってきたのは本当だ。だからこうして君に話してる。インテリアデザイナーのほうも、昔からボスと仲が良い奴とはいえ、少し待たせすぎているからね。企画を白紙にするならするで、こちらとしても動き方が変わってくるんだ。先方はすでにサンプルを発注する準備をしていて、工場を止めているところだ。損失が出た場合、対処しなければならないだろう。となると……廉や私の気持ちより優先せざるを得ないものが出てくる。いよいよさんの辞職というのが現実味を帯びてくるわけだ」

 裕介の喉仏が上下に動く。ごくり、と唾を飲む音がアルバートの耳にも聞こえた。

 「それを避けるには、コンセプト通りのモデルを連れてくることが必須条件だ。適当に街から若者を連れてくるわけにもいかない。ある程度、信用のおける人物でないといけないし、今後もモデルとして仕事を継続してもらわないと、企画として格好がつかない。一度きりの企画かもしれないが、モデルも一度きりというのは、コンセプトの「新しい」から離れてしまう。だって記録に残り続けないと、「新しい」だったのか「ただ一度きり」だったのか、分からなくなだろう」

 黙ったまま耳を傾ける裕介をけしかけるには、もう一息だ。アルバートも年の功でそれを察知する。ロックグラスの氷を人差し指でかき混ぜ、雰囲気たっぷりに煽る。一拍おいて、裕介の胸を指差す。

 「そこで、君だ。スタイルもいい。雰囲気もある。それに、企画内容としても若いほうがいい。裕介、君しかない。君がOrder Design RENの専属モデルになればいい」

 いつになく真面目に語るアルバートの言葉に頬を染める。褒められたとき素直に喜べない裕介は、テーブルの上の飲み物をストローで吸って誤魔化す。しかし中身はなく、ヂュゥ、と空気を吸う音が響いた。アルバートが気を利かせてバーテンダーに注文すると、すぐにカウンターから新たなグラスが差し出された。琥珀色のコーディアルシロップがソーダの中を泳いでいる。それを見届けたアルバートが、追い討ちをかけるように言い放つ。

 「さんを完全に救えるのは、君だけだ」

 完璧だと思ったのか、テーブルの下でアルバートがガッツポーズをしている。ところが彼の思惑とは別に、裕介が首を傾げている。完全、という言葉にどこか違和感を覚えたようだ。声を出さずに『完、全?』と口を動かしている。

 「企画が頓挫せずに済むのは確かです……ショ。けど───それこそ、が…あッ、さんが、モデルに手を出したっつう事実ができちまう。それは……完全じゃァない」

 アルバートは一瞬呆気に取られるも、待っていた、と言わんばかりに口元を緩ませる。

 「よく気づいた。君の言う通り、さんがモデルに手を出すような女だとは思われるかもしれないね。そうじゃないと証明できる方法もある。君が彼女と長く交際を続け、この業界で名を馳せる実力のあるモデルになることだ。君は──」

 アルバートはふたたびボウモアの入ったロックグラスをかき混ぜ、指についた水滴でテーブルをなぞる。焦茶色の木目の上に、ぷっくりとした一本の道ができた。

 「この道を、突破できるかい?」

 試すように裕介の顔を覗き込むと、八の字の眉をさらに下げてフーッと長いため息をつかれる。ほのかに口角を上げ、挑戦的な薄笑いを携えた裕介はアルバートを見据える。

 「それしかねェつうなら、やってやるショ」

 なみなみと注がれたコーディアルソーダをストローで勢いよく吸い上げると、気力を蓄えたように、自信と余裕に溢れた眼睛に光が射す。

 「見せてやるショ、若さでしかカバーできねェモンがあるっつうことを」

 彼の戦闘は、これから始まる。

 「ガキ扱いして何でも隠そうとすると兄貴に!」

 アルバートは眉を下げて苦笑した。

 「君は君が思っている以上に、周りに愛されているんだよ」



 それから事態は一変した。各モデルプロダクションを駆け回っていた廉は、その脚を止めた。つまらない噂に惑わされる相手を説得せずに済むことになった廉はストレスから解放され、晴れ晴れとした表情だ。自宅の冷蔵庫からは徐々にビールが消えていった。

 最初は戸惑っていたも、裕介が本気であると分かると、モデル活動の一環として始めたインスタグラムについて、ハッシュタグや写真加工の方法を教えた。事務所で二台のスマートフォンをデスクに置き、一つずつ説明してゆく。裕介は試しに、ずいぶん前に撮ったタイカレーの写真をアップした。ハッシュタグは店名だけの、シンプルな投稿だ。それでも大きな一歩だった。こういうのは苦手だ、と言って避けていた裕介が、ただ一人の女性のために変わってゆく。は照れくさそうに笑い、投稿されたカレーへ「いいね」を押す。後ろからその様子を見守る裕介へ振り返ると、与えてもらってばかりだと言い、少し曇った表情を見せた。裕介は何を言ってるんだ、と言わんばかりの呆れた表情を浮かべる。

 「最初にオレに与えてくれたのは、さんのほうショ」

 の後ろから、秘密のキスを髪に落とした。事務所には、まだ廉とアルバートが残っているのだ。とはいえ、ふたりは気づいており、口を閉じたまま頬に笑窪を浮かべている。廉はその表情のまま、手元のキーボードを打ち鳴らしている。夏秋コレクションについて、カメラマンへ相談するメールだ。

 大型企画が裕介のモデルデビューとなっては相手も心許ないと判断し、夏秋のコレクションから起用することになっていた。春夏に比べると規模は小さいものの、デビューにはちょうど良い容量だ。廉はこのために、スケジュール調整に関する連絡を送った。すぐに返信が届く。そこには日程に対する快諾と、『前にさんと一緒に来てたあの子か! 楽しみだ』と喜ぶ声が記されていた。それに対し、廉は『独特のセンスがあるし、スタイルがよくて自慢の弟なんだ。キミのレンズを通してどう映るか、オレも楽しみだ』と送る。そして直後、またに唇を近づける裕介へ向かって「裕介、社内だぞ」と声をかけた。肩を震わせた裕介は、廉のほうを向くとから大げさに離れ、ばつが悪そうに目を泳がせた。

 こうして撮影された夏秋コレクションの評価は上々で、あの新人モデルは誰だ、と業界で話題を呼んだ。一ヶ月に四枚程度しか更新されない裕介のインスタグラムにもファンがつく。多いときには日に十数人といった規模だったが、地道に数を増やしていった。

 フォロワーが数百人を越えたころ、裕介はビッグベンとの写真を更新した。文章に「#5ever」とだけ添えたそれは、数千人に肯定された。それがちょうど一年前、昨年の夏の写真であることに気づいた者が返信コメントで指摘すると、さらに盛り上がりを見せた。百人近くのファンが減ったが、倍のファンが増えた。

 玉虫色の髪をトレードマークにしたモデルは、ロンドンのファッショニスタたちの間でちょっとしたブームを巻き起こす。どこからリークされたのか、彼が専属モデルになった経緯が知れ渡ると、ロマンチックだと女性ファンが急増した。ロードバイクに跨る姿を隠し撮りされたりなど、裕介の環境も少しずつ変化してゆく。こうして迎えた『brand new ONE』の撮影では、満足そうに笑う廉とインテリアデザイナー、そして、変わらないの姿があった。




イメージBGM:LUCKY TAPES「MOOD」

#5ever(英語のスラングで forever(=永遠)を4everと書くことがあります。それよりもずっともっと永遠に、の意味です)





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