第八話
※性的描写が入ります。
ふたりが初めて肌を重ねたのは、それから半年後のことだった。
時間がかかったのは、あの夜、自暴自棄になったが裕介を誘惑したことも要因の一つだ。手を出してしまえば、時間が悪い方へと戻ってしまいかねない。そう判断した裕介は、割れ物へ触れるようにを扱った。言葉よりも行動で伝えようとしてしまう自身の熱を理性で封じ込め、そっと白い額へと唇を寄せたり、手繰り寄せるように指を絡めたりした。言葉で示そうにも相応しいものが浮かばなかったのか、もどかしい表情で「」と何度も名前を呼んだ。それでも足りないときは、瞳に想いを込めて目を合わせ、やわらかな頬を撫でた。
「『相手には時間をかけて、丁寧に対応する』……わかってるっショ、わかってる」
深夜のリビングで、見てもいないテレビの光に照らされながら、裕介は独り言を呟いた。テレビ以外の光はすべて消してある。青白い光が揺らめき、裕介の玉虫色の髪を妖しく彩る。ソファの上で長い手足を折り曲げるようにして、丸くなって座っていた。その窮屈そうな背中は、背後に迫る影に気づかない。
「『大切なら』……。くそ、何東堂の言ってたことばっか気にしてんショ、オレ……」
「なにブツクサ言ってんだ裕介」
声をかけたのは同じ屋根の下に住む兄の
「ほわちょ!!」
「うわ、そんなにビビんなよコッチがビビるだろ」
ぼす、と音を立てて裕介の隣に座る。リモコンでテレビのチャンネルを回しながら、手の中の缶ビールを煽る。明日は土曜だが、こうして自宅で酒を飲んでいる姿はめずらしい。目ぼしい番組がなかったのか、適当なニュース番組にしてリモコンをテーブルに戻す。
「兄貴……何かあったのか?」
「お前こそ」
「オレは別に、大したコトじゃないショ」
「オレも別に大したコトじゃねーわ」
「クハ」
不器用な兄弟が笑い合う。廉は黙ったまま缶を傾け、裕介は黙ったまま正面のテレビを見る。互いに口を閉じて、しばらくそうしていた。ニュース番組が終わり、次に始まったテレビショッピングでは吸水性の高いタオルについて説明していた。裕介がウトウトと瞼を伏せ始めた瞬間、廉が口を開く。
「この半年でよく仕事できるようになったよ、裕介」
「ん……急に、何ショ」
寝ぼけ眼をこすりながら、廉のほうへ頭を向ける。
「さんも助かってると思うぜ」
「仕事とそれは別の話ショ」
「いや、関係あるだろ。オレのカンだが、もしさんに夢中で仕事がそっちのけになるんなら、さんは責任感じておまえと別れるんじゃないかと思ってる。そういうの優先しちまうタイプだろあの人」
「う」
思い当たる節があったのか、裕介は眉を下げる。
「で、おまえが別れないっつったら仕事辞めるかもしれないよな」
「それは……」
「オレにとっては仕事仲間としてどっちも大事だから欠けて欲しくないんだ」
「んなの、仕事ならがいなくなったほうが困るに決まってんショ……」
「なんだ、おまえ呼び捨てで呼んでんのか」
「あッ、いや、ち、違うっショ!! さん! あッ、さん!!!」
まどろんでいた表情が一瞬にして覚醒し、その頬に朱が加わる。焦りでバタバタと手足を動かした裕介に廉はやわらかく笑いかける。
「いや、いいよ別に今仕事じゃねェんだし」
そう言われても恥ずかしさが
「幸せそうで何よりだ」
「笑うなっショ……」
「で、そんな幸せそうなふたりに何の悩みだ?」
笑いを嚙み殺しながら廉が尋ねる。どうせさんのことだろ、と確証を持ったように続けた。裕介は目を逸らしたり「あー」と小さな呻きをあげたりしていたが、廉が優しい笑みを浮かべながら言うまで待っている様子を見て観念したように打ち明ける。にどこまで触れていいのか分からない、という、純朴な青年の悩みだ。甘ずっぱい若い相談に歯がゆさを覚えた廉は、思わず赤面する。昔の自分でも重ね合わせているのか、そういう時期あったなァ、と小声で呟く。
「あー……ま、触りたいだけ触ればいいだろ、付き合ってるんだし」
「そういうワケには行かないんショ」
「さん年上なんだし、ダメならストップかけてくれんだろ」
「こっちにも事情ってモンがあんだよ」
「何かあったのか?」
「……そこまでは言えないショ」
「じゃあオレからは何とも言えないけどよ」
「……」
「どうせ結婚しない限りどんなに頑張っても0.02ミリ程度の隙間は開いちまうんだから」
「品のない言い方すんじゃねーよ」
「何はともあれ、不穏な相談じゃなくてよかったわ」
廉は最後の一口を飲み干すと、おやすみ、と行って部屋を出て行った。裕介はソファの上でため息をついて頭を掻く。兄には敵わないのが弟というものなのかもしれない。少なくともこのふたりはそれに当てはまるようだ。
部屋へ戻ったと思った廉は再びリビングへ戻ると、小さな箱を一つ投げつけた。0.01と金色の文字で書かれた白い箱だ。中身が分かった裕介は「ハァ!?」と大声をあげる。廉は人差し指を口元に持ってきてシー、と声を鳴らした。今は夜の一時半だ。
「1ミリでも近づきたい裕介のために、頼れる兄からの餞別な。じゃ、マジでおやすみ」
箱はすでに開封済みで、二個ほど使った跡が見られる。妙に生々しいそれに顔を顰めた裕介は、深いため息をついてテレビのスイッチを消した。
はで、それについて考えてはいたのだ。
半年が経ち、今は春。
充分なほど、を大切にしていると分かる行動を、裕介は取っていた。十月、所持していたグラビア雑誌をすべて捨てた。二、三日経つと新たな一冊が加わっていることもあったが、それも一週間以内にはビニール紐で纏められていた。十一月、が仕事で大きな失敗をして、思わず八つ当たりしてしまったときも、裕介は優しい笑顔のまま、そっと頭を撫でた。十二月、クリスマスには綺麗なイルミネーションが見られるスポットへを連れて行った。一月、仕事が忙しく家事が出来ていないことを知った裕介が洗濯をして夕食を作った。この頃にはケイトともそれなりに話すようになっていた。ふたりのことは、皆に祝福されていた。二月、バレンタインには
裕介は日本ではまだ高校三年生だ。そう思うと
しかしこの三月、裕介の「高校生」という肩書きは外されることになる。もちろん学生であることに違いはないが、幾分か背徳感が緩和される。高校生と、大学生。たった半年の違いであれ、そこには大きな隔たりがある。と裕介は、出逢ってからたった数週間で交際を始めた。そして、このふたりの間には十二年間の差がある。彼女たちにとって、時間、というのは重要な要素の一つだ。
短い時間の中で互いに惹かれ合い、時間をかけて愛を育んでいる最中。それがふたりの現状だ。月に二回、裕介はの家に泊まっていながら、同じベッドで寝たことすらない。ただ幸福そうな笑顔でおやすみを告げて眠るだけだ。深夜、がこっそりと寝顔を覗くと、あどけない少年のような顔をしている。笑みが思わず溢れ落ちてしまう。規則正しく上下する肩から少しずり落ちた布団を掛け直すのが、の役割だった。そんなが立ち去ると、裕介はそっと目を開け、枕に向かって声を殺しながら叫んだ。
そのときが来たのは、四月の月曜日だった。
いつも通り、裕介と違うベッドで目を覚ましたは、冷蔵庫へ飲み物を取りに来た。時刻は朝の五時。仕事は十一時からだ。なぜか早くに起きてしまっていた彼女は、もう一眠りしようと部屋へ戻る前に裕介の顔を覗きに行く。すると、寝ていると思っていた目がパッと開き、
「もうちょっと寝てようぜ〜」
口調の軽薄さとは裏腹に、の耳のそばにある胸板からは早鐘が鳴っている。背中に回された大きな手は、緊張しているのか冷んやりとしていた。その手の熱をすべて集めたような下腹部のふくらみに気づいたは、裕介の腰に手を回し、自分の身体を密着させた。同じ柔軟剤と、同じシャンプーの匂いが重なり合う。
「ダメならダメって言ってくれっショ」
不安そうな双眸に、深い口づけでが答える。そこからは、
互いの歯列をなぞるように舌を絡め、呼吸のリズムを合わせるように唇を離して目を合わせた。ふたりはくすぐったそうに、愉悦の笑みを浮かべる。裕介は口から喉へ、喉から鎖骨へ、鎖骨から胸へ、這うようなキスを与えてゆく。長い指で形を確認するようにの左胸を持ち上げ、丸く膨れた桜に優しく唇を落とす。そのまま、果実を
慣れていないのか、コンドームの裏表を確認する裕介へ、がそっと手を貸してやる。くるくると根元まで下ろす。0.01ミリの距離を持って、ふたりが近づく。可能な限り一つ。それでも、どうあがいてもふたつ。その影が重なり、ゆらゆらと朝陽に揺らぐ。
恍惚とした瞳同士がぶつかり合う。の濡れた睫毛を親指で拭うと、そっと
「なんか……言葉より上手く伝えられてる気がするっショ」
そう言って、場に似つかわしくない清福な微笑を浮かべた。その首にが腕を回すと、裕介は肘を曲げて唇へと口づける。そして白くやわらかな肌を抱きながら、繰り返し、の名前を何度も呼んだ。
───下腹部の重みは、先ほどまで裕介がそこへいたことを表す。五分前まで、彼らは限りなく一つだった。ふたりして朝陽を浴びながら、浴室で汗を流す。照れ臭そうに笑い合う彼らの影は、まぎれもなく一つだ。
「のおでこ、こんな感じなんだな」
額についた水滴を拭って、丸い額にキスをする。白い湯気の中、少し色を濃くした緑色の髪の毛が首筋に絡みついているのが見える。それを肩の後ろへ持って行くと、その手を握った裕介が指先に口づけた。影がふたつに分かれる。
「初めて知ったっショ」
あまりに幸福そうに破顔する裕介に、は泣きそうになった。同じく初めて見る男の額に、そっとやわらかな唇を近づけた。背伸びをしても届かず、眉を下げて笑う彼女に、裕介は背を丸める。ようやく届いた額にキスをすると、甘い水の味がした。
同日、昼の二時。のタンブラーのコーヒーがなくなった。廉の事務所には、ウォーターサーバーとコーヒーメーカーが設置されているブースがある。紅茶好きの者は、個人でティーバッグをデスクに常備している。生粋のイギリス人であるアルバートはその一人だ。は緑茶のティーバッグをたまに取り出すことがあるが、今日はコーヒーを選んだらしい。空になったタンブラーを持ってブースへ行くと、紅茶のお湯を注ぎに来ていたアルバートが携帯電話で話していた。話の邪魔をしないようにと静かに背後を通った結果、会話の内容がの耳に届く。
「ああ……あの案件、なくなったんだよ。モデル事務所のほうがさ、広報が若い男に手を出すような女なら断るって。モデルに傷がついたらたまらないとか言いやがってさ。酷い言いがかりだよ、まったく。若けりゃ手ぇ出すってわけじゃないっつーの」
は呆然と立ち尽くした。振り返ったアルバートと目が合うと、彼は気まずそうに目を逸らして電話を切った。は顔を真っ青にしたままその肩をつかみ、それが本当か問い質す。アルバートは
多かれ少なかれ想定し得る事態ではあったが、実際に起こってしまったことに、もはや乾いた笑いしか出なかった。
イメージBGM:星野源「肌」