第七話




 はじめてのデートは海を選んだ。

 交際すると決めた水曜日の深夜から四日後の、晴れた土曜日だった。

 

 水曜日の午前一時、帰ってきた裕介と言葉なくハイタッチした廉は、そのまま何も聞かずベッドへ入った。

 裕介が木曜日に事務所へ行くと、アルバートたちも祝福ムードで、が奥のデスクで決まり悪そうに頬を赤らめて座っていた。三週間という短い期間の中、色々なことがふたりにはあった。その態度にやきもきしていた周囲の人々は、喉につかえていた魚の小骨が取れたようだと晴れ晴れとした顔をした。思いのほか年齢差に言及されなかったは不思議そうにしていた。裕介は「世間なんてこんなモンなんスよ。考えすぎショ、さん」と肩を叩いた。

 金曜日は祝賀会だとは飲み会に連れられそうになったが、土曜日にデートをするのだと言うと、早く帰れと背中を押された。

 そして土曜日、は車を走らせて裕介を迎えに行った。渚に着くとレンタルのふたり乗り用自転車を借りる。裕介が前に乗ってペダルを漕ぐ。ちょっとした坂ではスピードが落ちるどころかむしろ速度を増してゆくのに驚いたは大きな歓声を上げた。それに気をよくした裕介はさらにペダルを踏み込む。同じようにふたり乗り自転車へ跨るカップルたちの中で一番速く坂を登り切ると、坂の上の小さな白いベンチに座ってサンドウィッチを食べた。ベーグルでハムとクリームチーズを挟んだシンプルなそれは、家でが作ってきたものだ。裕介は幸福そうに時間をかけて食べた。そんなにもったいなさそうに食べなくても、それくらいなら、いつでも作るし、家に来たらもう少し手の込んだものを振る舞うからとが言う。それでも今日のこれは特別なんだ、と裕介は満足そうに頬張った。

 ベンチからは青い海が見える。少し緑がかった青。夏には人が海水浴に使っているビーチだ。ふたりのいるところから、砂浜は死角になっており、人がどれほどいるかは分からない。食べ終わったらビーチへ行ってみよう、とが提案する。裕介は頷いて、また一口サンドウィッチを齧った。が紅茶の入ったボトルを渡す。フタを開けると、ふんわりと葡萄の香りが広がった。秋の匂いだ。裕介はそれを気に入ったようで、何度か飲み口に鼻を近づけては目を閉じた。

 食べ終わっても、ふたりはぼんやりと海を眺めていた。一言も話さず、ただ手を重ねて、初秋の潮風に吹かれていた。が甘えるように裕介の肩へ頭を預けると、彼は蕩けるような笑顔で肩を抱いた。誰もいない空き地に、たったふたり。幸福という名の物語には、余計な登場人物など必要ないらしい。ただ静かな微風(そよかぜ)が流れてゆくだけだ。

 少し陽が陰った頃、裕介はにそろそろビーチへ行こうと呼びかけた。しかし、彼女はいつの間にか眠ってしまっていたようで、小さな寝息を立てている。その頬に口付けると、耳元で彼女の名前を呼んだ。朝にしか咲かない花が開くように、ゆっくりと瞼を上げて裕介の姿を瞳に写す。潮風ではためくの髪を耳に掛けてやりながら、夕陽を見に行こうと誘う。頷きながら小さくあくびをする。そのあくびが落ち着いて唇が閉じられると、裕介はそこへ自分の唇を合わせた。ふたりは顔を見合わせて笑った。

 帰りは下り坂で、裕介は必要最低限だけペダルを踏むと、あとは車輪の回転に身を任せた。少しずつブレーキをかけながら、速度を落とす。先に自転車をレンタルショップへ返すと、サイズ違いのビーチサンダルを買って海へ歩き出した。

 時期を過ぎたビーチでは、おだやかな潮風が吹いている。一つに束ねた裕介の髪がふわりと浮き、後ろにある碧色の海に馴染む。履いてきた靴と靴下を店員にもらったビニール袋へ放り入れ、真新しいサンダルに足を入れる。

 海へ続く階段を降りるとき、裕介は手を差し伸べた。逆光でよく見えないが、がはにかんだ様子に気づくと、彼も同じように照れた顔をして眦を下げた。砂浜を歩いてゆくが、人はまばらだ。裕介との他には、数人のサーファーと、一組の老夫婦しかいない。通り過ぎた夏を慈しむように、ふたりは砂浜に足跡を残してゆく。手をつないだままふたりして海へ向かい、足先を海へつける。思いのほか冷たく感じた水温に後ずさりをする動きが重なると、どちらからともなく声を上げて笑った。ふたりで何度か海と追いかけっこをしているうちに、裕介のサンダルが脱げて波に攫われた。大きな波は、たった一往復で遠くまで運んでゆく。波が引き返したところで一生懸命長い腕を伸ばすも、届かない。その様子を見たが大きな声で笑い出す。水色と橙色の混ざり合う空に、朗らかな音が響いてゆく。

 サンダルを諦めた裕介は、左足を裸足にしたまま、の左手を握って海沿いを歩き始めた。時折、は屈むと貝を拾って裕介に見せつける。少女のようなその動作をするたびに目を細めると、「ステキです」「綺麗スね」と声をかけた。その感想を聞いたは満足したのか、持っていた貝を放り投げて自然へと還す。持って帰らないんスか、と裕介が尋ねると、思い出だけで充分だとは笑った。それを聞き、の質素な部屋のことに触れた。大事にしたいものは少なくしたほうが大切に扱える。そうは答えた。いい考えスね、と裕介は穏やかに微笑む。白い砂が風に舞い、少し濡れたのふくらはぎに纏わりついた。彼女は両手でそれを払うと、当たり前のように裕介へ手を伸ばし、繋ぎだす。その仕草に、裕介の目から涙が溢れた。はカバンからハンカチを取り出すために手を離そうとしたが、裕介が強く握りしめて阻止した。ただ流れてゆく露を放って、海のそばを歩き続ける。薔薇色に染まった空は、裕介の髪を一層美しく魅せる。は手を繋いだまま裕介の正面に回って彼を抱きしめると、顎にキスをして、届かなかったと恥ずかしそうに笑った。裕介は涙を腕で拭うと、の後頭部と腰に腕を回し、割れ物に触れるようなキスをした。



 「長く感じてましたけど、オレたちは会って三週間しか経ってないんスね」

 月が昇り、青藍色の夜を走る車の中で裕介は感慨深そうにポツリと呟く。サンダルはすでに履き替えており、後部座席に置かれたビニール袋には三足のビーチサンダルが入っている。は前を見たまま頷く。

 「思えば一目惚れだったのかもしれないな」

 あんなに酔っていたのに、説得力がないとが言うと裕介は苦笑する。

 「地獄ン中に天使がいるって思った。あのとき白いTシャツ着てたっショ。天使が日本語を話すってのは、あのとき初めて知ったな。そもそも顔がすげータイプだった」

 どこにでもあるような顔じゃないかとが頬を染める。

 「さんがそう思ったとしても、オレにとってはさんにしかない顔ってことショ」

 裕介は道を見るの横顔へ、視線を送る。情を募らせたその目は、対向車のライトに照らされて美しく光り輝く。目を合わせずとも、言葉以上に伝わってくる瞳に顔を火照らせたは少しだけアクセルを強く踏んだ。

 スーパーマーケットの駐車場に車を止めると、エンジンを切って買い物をする。夕食はふたりで作って食べようと約束をしていた。一緒に餃子を包もうという話になり、通り道にあるアジア系の店を選んだ。餃子の皮、ひき肉、ねぎ、キャベツ、しょうが。途中で春巻きの皮を見つけた裕介が立ち止まっているのを見つけたは、それもカゴに入れて春雨とタケノコを追加した。がカートを推し、その隣を裕介が歩く。買うものを一通り押さえたふたりはレジへと向かう。

 「先生とおつかい?」

 店員は悪気なくふたりへ微笑みかける。が返答に困っていると、

 「いや、『彼女』とこれから夕飯を作るとこだ」と裕介が英語で淀みなく告げる。

 「ごめんなさいね、タイプが違うし、年齢がそれくらいかと思っただけなのよ」

 この日、はシンプルな白のサマーニットに薄紅色のフレアスカート、灰色のソックスに白いスニーカーというシンプルな出で立ちをしていた。対して裕介は、紫と青のボーダーTシャツに黄色のスキニーデニム、そして紫に青い紐のデッキシューズという派手な格好だ。店員の言うタイプが違う、とはふたりの見た目のことだ。

 「このくらいでいちいち引っかかってたらしょうがないショ」

 裕介は店員に詰めてもらった商品袋を受け取ると、日本語でに言う。眉を下げながらも口角を上げて頷く彼女の頭を撫でると、「さんの餃子と春巻き食えるなんて今日は最高の一日っショ!」と嬉しそうに鼻歌を歌った。心から喜ぶその姿に、も思わず曇っていた顔を綻ばせた。

 車を停めると裕介が荷物を降ろして玄関まで運んでゆく。鍵を開けたに続き、裕介がすべての荷物をキッチンへ運び入れる。少し疲れたから休んでから作ろうというを後ろから抱きしめ、同じソファにふたりで座る。裕介はに気づかれないよう、髪先にキスを落とした。

 「オレが餃子のタネ作るんで、運転疲れのさんは昼寝でもしててくださいショ」

 そう言って押し倒すような格好にさせられたの手の甲へ、裕介は丁寧に唇を触れさせる。

 「大切にするって言ったろ」

 そして、を寝かしつけるようにして、そっと離れると、キッチンで手を洗い始める。今日の夕陽よりも赤い肌をしたが、両手でその顔を覆いながらソファへ体を沈ませる。隠れていない耳を見た裕介は、満足そうに笑うと、にんにくとしょうがを刻み始めた。



 ふたりで餃子を包みながらロードレースのDVDを眺める。落車シーンにふたりで顔を顰めたり、山岳賞争いの選手たちに胸を高鳴らせたりしたときに作った餃子は、少しかたちが歪だ。それ以外は丁寧に包まれ、秩序正しくフライパンの中に収まった。今やジュウジュウとおいしそうな音を鳴らしている。その隣では、並々と油を注いだ深めのフライパンの中で春巻きが泳ぐ。ふたりとも腹の虫を鳴かせながら、焼き上がりまで待ち続けた。

 きつね色になった春巻きと餃子を皿へ移すと、手を合わせて食べ始めた。テレビでは変わらずロードレースが繰り広げられている。裕介が走った様子を写したDVDはないのかとが尋ねる。次に来るときに持ってくる約束をして、小指を絡めた。

 食事が終わってもロードレースは続いていた。ソファに掛けたが時々裕介に話を聞きながらレースの状況を把握してゆく。

 「さん」

 名前を呼ばれて横を向くと、裕介が自らの膝を二度叩いた。首をひねると、

 「こっち。座れショ」

 と手を引いてを膝の上に座らせる。長い脚は細く、重くないかとが尋ねる。

 「んなヤワじゃねーよ」

 裕介は後ろから抱きとめるようにの脇へ腕を回し、レースを眺める。長いレースは優勝者がなかなか決まらず、時間がすぎてゆく。ふたりともウトウトと船を漕ぎ始めたところでレースは終わりを告げて解説へと入る。DVDを止めて裕介へ先に風呂に入るよう言いながらバスタオルを渡す。

 「え…え…と! オレ、と、泊まるつもりはないショ、そろそろ帰ります」

 はきょとんとして、ソファがベッドにもなるから遠慮することはないとあっけらかんとした顔で話す。

 「あ…じゃ……じゃァ兄貴に連絡しときます」

 は頷いてビッグサイズのTシャツとスウェットを取り出すと裕介の肩に合わせながら入りそうだからこれで、と押し付ける。バスタオルと着替えを受け取った裕介は、廊下で廉に電話を掛ける。

 「兄貴」

 「おう、まだ帰ってこないのか」

 「さんが泊まっていいって言ってる」

 「展開早いな? 意外と積極的なんだな」

 「ソファベッドがあるからそこで寝ろって」

 「ああ、そういう感じか。ま、今日は楽しくお泊まりすればいいんじゃないか?」

 「……」

 「明日オレ一日外にいるけど鍵あるよな?」

 「ああ」

 「じゃ、おやすみ」

 「おやすみ……」

 部屋に戻ってへ廉に連絡がついたことを話すと、風呂を借りると話し、ぎこちない足取りでバスルームへと向かう。さきほどまで膝に乗せていたと同じ柔軟剤の香りがするバスタオルとTシャツの匂いを嗅ぎながらため息を吐く。そこへが追いかけてきて、未開封の歯ブラシとボクサーパンツが二枚入ったビニール袋を渡す。先ほどのスーパーで購入していたらしい。裕介は頬を染めながら会釈をして受け取る。自身が部屋に泊まれるよう準備をしていたのことを思うと、ふわふわとした雲のような幸福感が裕介の胸いっぱいに広がった。

 風呂から上がると、ベッドに姿を変えたソファがリビングで待っていた。裕介から洗濯物を預かったは洗濯機に放り入れると、自身も風呂に入ると浴室へ向かう。先に寝ていて構わない、と言われたが、眠れるはずもなく、ニュース番組をじっと見ていた。



 髪が濡れたままのが静かに冷蔵庫へ向かうのが見える。裕介がすでに寝ているものだと思っているらしく、ゆっくりと冷蔵庫を開け、そっと飲み物をコップへ注ぎ、音を立てないように喉を潤している。付けっ放しのテレビの明かりがその様子を照らし出す。裕介は横になりながらじっと眺めた。

 Tシャツとショートパンツの組み合わせだ。白い太ももが露わになっている。

 「さん」

 今日、何度となく裕介はの名前を呼ぶ。は振り向くと、起こしてごめんと謝った。元から起きていたのだと言う裕介に近づき、眠れないのかと頭を撫でる。

 「胸がいっぱいなんだ」

 裕介は、これ以上ない笑顔でを見つめる。

 「さん、また明日」

 ベッドの中から手を伸ばして抱きしめた。の腹部に顔を(うず)める。また明日と言える今日に、おやすみを告げて、ふたりは別々のベッドで目を閉じる。そして数時間後、同じ朝を迎えるのだ。




イメージBGM : never young beach「SURELY」





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