第六話




 あの夜が明けて、裕介の大学生活が始まった。

 一日目から時間いっぱいまで講義する教授もいれば、一年を通じて何をするか細かく説明されて終わる授業もあった。高校とは異なり、広い教室の中、後ろのほうでぽつんと座り、適宜メモを取る。

 ここでは、玉虫色の髪をしていても、派手な色彩の洋服を着ていても、誰も何も言わない。自由な空間だ。勉学に力を注げば、見た目や趣味がどんなに奇抜でも、口うるさく怒る者はいない。もちろん、中には物珍しそうに見つめる者もいたが、そんな視線には慣れてしまっているのか、裕介に気にする様子など一切見えない。


 今日、大学が終わっても、廉の事務所には行かない。もともと決まっていたことだ。大学が始まったら隔日だけ手伝う。裕介の本業はあくまで学生であり、卒業をするまでは、きちんと良い成績を収めることが最優先事項だ。

 バイトをするのは、火曜、木曜、土曜。土曜はイベントがあれば手伝いに行くが、なければ基本的には休みとなっている。つまり、裕介が何の約束もせずに会える可能性があるのは、週のうちほぼ二日しかない。それに加え、広報担当である彼女は外出や会議室での打ち合わせが多い。会えるのは、ただの可能性であって、確実なことなど、今はない。


 唇の上を、自身の人差し指で撫でては遠くを見つめる。この動作を、裕介は今日のうち少なくとも百は繰り返した。教授がレーザーポインターでスクリーンを指すたび、その赤で目を覚ます。止まっていた手を動かしては、内容に追いつくとまたも唇に触れている。

 上の空でありながら幸福そうな裕介は、昼になると食堂でスプライトを買った。イギリスへ来るまで滅多に口にしなかった炭酸飲料水。が最初に薦めた飲み物だ。ストローがないときでも、目につけば購入して飲むようになっていた。イギリスに来てから、裕介は色々なものを飲み込むのが上手くなった。そして同時に、吐き出すことも。

 ちびちびと味わうように嗜んでいたら、大学を出る頃には炭酸が抜けきっていた。裕介が口を離せば、レモンの香りがする彼のため息が飲み口の上を走り、ボウ、と汽笛のような音を鳴らした。



 はというと、今日一日、滅多にしない凡ミスを頻発させた。

 メールで「添付ファイルをご確認ください」と書きながら添付ファイルを忘れたり、十三時の社内ミーティングを午後三時と間違えていたりと、散々な結果だった。

 昨晩から朝にかけて、家での裕介の様子を見ていた(レン)は、ふたりの間に何かがあったことを察知したのか、苦言を呈することなく彼女のフォローへと回る。そして、通常であれば夕方六時まで働く予定だったところを、午後三時には退社させた。は何度も謝りながら会社を後にした。

 自宅付近のスーパーマーケットでビーフィーターとトニックウォーターを買うと、家に帰るなりキッチンでジントニックを何杯も煽った。満足したのか、赤ら顔で冷たい布団へ潜り込む。そして言葉にならないうめき声を毛布の下で響かせては転がった。

 急に、しゃんとしたかと思えばバスルームへ向かい、化粧を落とし始める。ぬるま湯でオイルを落とすと、アンチエイジングのクリームを顔全体に丁寧に広げた。流れるような動作は、二十代後半から始めた生活習慣で身についたものだ。今では、眠る前に自動処理されるような形で体が覚えている。目尻とほうれい線の周りは、少し多めにクリームを盛る。そんな自分の姿が鏡に写り、感傷的になったのか、わっと涙を流して座り込んだ。

 その場所からは、あの日、裕介が座っていたソファが見える。少し右へと動けば、キスをした玄関も目についてしまう。小さな家に、裕介という存在は多すぎるようだ。どこを見ても、の脳裏にその姿が浮かんでしまう。リビングのソファと玄関以外にも、至るところに記憶が残っている。手土産のショートブレッドを開けたキッチン。裕介の次に入ったら、便座が上がったままになっていたトイレ。

 涙を拭うためなのか、何も見ないようにするためなのか、は両手で拳を作ると瞼に重ねた。ズルイ、おとな。裕介が放った言葉を何度も口にしては、拳で()き止められなかったものが顎を伝って落ちる。



 火曜日、裕介が事務所に入る時間の少し前。は無理矢理に直帰の予定を組み立てた。

 水曜日、相変わらず小さなミスが相次いだ。

 木曜日も火曜日と同じように、外出予定を組み込んだ。しかしこれがいつまで続けられるかというと、そう長くはないことも分かっていた。

 土曜日と日曜日、一人で考える時間を設けようと、外出せずに考え続けた。

 結論の出た月曜日、火曜日の午後四時から一時間、裕介の教習時間として会議室を確保した。会社内であれば、他人の目があるため、声を荒げたりしないようにできる。そんなの思惑とは裏腹に、ふたりが会議室に入った瞬間、社内に残っていた全員が気を利かせ、仕事を切り上げて帰ってしまった。外の様子が見えない会議室からは、その状況は一切見えない。

 は裕介に座るよう呼びかけ、何の話かというと、と切り出した。裕介は黙ったまま、意志の強い瞳でを映し出す。

 それにたじろぎながらも、穏便に話を済ませるため、そして自分を嫌いにさせるための言葉を選んで紡ぎ出してゆく。


 引き返すなら、今しかない。 

 「言ったショ。さんが踏み込んでくれるなら、オレはいつでも、一緒に飛んでやるって」

 今ならキスしたことも忘れるし、誰にも何も言わない。

 「脅しっスか? 別に好きにすりゃあいい。キスのことも───忘れてくれなくていいショ」

 すでに何人かの男と付き合ったことがあるし、裕介が初めてではない。

 「そりゃそうっショ、さんのこと放っておける男なんかいないさ」

 十二歳も違う。

 「クハ、んなの今更ス」

 立場も違う。

 「夫婦経営してるブランドなんて探しゃァいくらでも出ます。今はさんの下でも、そのうちオレは這い上がる。そうなりゃ立場もへったくれもないショ」

 きっと裕介の心は憧れであって、恋じゃない。

 「……なんでそんなこと言うんスか」

 若い者の過ちを正すのが年上の勤めだから。

 「だから!! 正されなくていいから一緒にいたいっつってんショオ!?」

 ああ言えばこう言うへ対し、さすがに痺れを切らしたのか、裕介が声を荒げる。肩を上下させて、乱れた呼吸を整える。

 「もう一度、考え直してもらっていいスか」

 裕介は会議室のドアを荒々しく閉めて自分のデスクへと戻った。しばらくすると目を赤くしたが出てきたが、裕介はただ黙ってデータを入力し続けた。キーボードを打つ音だけが、カチャカチャと響く。ふたりしかいないことが、良いことだったのか、悪いことだったのか。それは、誰も知らない。



 業務用の「おつかれさました」でへ声をかけ、裕介は帰宅した。自転車に跨っている間、カバンから着信音が聞こえていたことを思い出し、携帯電話を取り出す。

 履歴を確認すると、からの着信が一件入っていた。

 さらに、留守録の数が増えているのを確認した裕介は、緊張した面持ちでそっと再生する。五秒ほど沈黙が続くと、の声が流れてくる。要件はこうだ。電話を掛けているのはであること。分かりきったことをわざわざ言うに、裕介は思わず笑った。しかし、その後に告げられた言葉で動きを止める。ふたりで会うのは金輪際止める。

 「え」

 固まったままの裕介を他所に、留守録の再生は続く。その前のメッセージを再生します、と機械音声が告げると、東堂の声が流れ始めた。

 の家へ行く前に聴き損ねた一件だ。 

 「やぁ巻ちゃん、オレだ、東堂だ。さっきは録音に入りきらなかったが、最後に一つ忠告しておく。巻ちゃんは恋愛に疎いだろうからな。相手には時間をかけて、丁寧に対応するんだぞ。間違っても先に手を出すと言うことはするな。大切ならな」

 「ちッ、もう遅いっショ!!」

 裕介は深く長い息を吐くと、相手のいない受話器に向かって罵倒する。

 「一件でまとめろっショ、バカ」

 その先から返ってくるのは、メッセージは以上です、という無機質な声だけだ。乱暴に通話終了ボタンを押すと、部屋の中をぐるぐると歩き回る。数分後、足を止めて小さく頷くと、へと電話をかけた。数秒のコール音。が何かを言う前に裕介は言葉を繋ぎ始める。

 「あ……今どこにいるんスか? 言ってくれればオレ、今から行きます」

 本当にその先に人がいるのかと疑ってしまうほどの沈黙。

 「ふたりきりじゃ会えないってンならどこでも場所指定すればいいっショ」

 ようやく聞こえてきたのは、の呼吸。

 「オレはそこに行くっつってるショ」

 冷めたような声で、は彼女の家へ来るよう裕介へ命じた。投げやりなの言葉に胸騒ぎを覚えながら、裕介は言われた通り、日曜日と同じルートを辿り始めた。


 ドアが開くと、白いブラウスを着たがあらわれる。薄紅色のバラの刺繍が入った黒い下着が、月明かりに照らされて透けている。裕介は目線を床へ寄越した。

 「さん、どお……ッ」

 どうして。どうしたのか。声にならない問いは初秋の空気の中へと消えてゆく。

 一回セックスすれば、衝動的な熱情は沈着するんじゃないかと考えたのだ、と、電話で聞いた冷ややかな声で告げたは、片手でブラウスのボタンを外してゆく。もうひとつの手は、裕介の腕をつかみ、室内へと誘う。その両手を、裕介は左手だけで乱暴に掴み上げた。長い指が手首を締め付けるが、眉根を顰めたの顔に焦り、とたんに緩くなる。

 「オレのせいで、自分のこと投げやりになっちまった、って言いたいワケ?」

 これまでに見たことのない痛ましい表情を目の当たりにして、は、ようやく、冷静に、なる。スッと頭が冷えたような感覚を得たの耳に、裕介の言葉がよく刺さった。

 「たしかに、勢いで、キス……しちまったし、それは悪かったと思ってる。けど軽い気持ちじゃない。あのときも、今ここに来たのも!!」

 そんなことは分かっている、との目が語っている。裕介は本気だ。だからこそ怖い。飄々としているようでいて、根は真面目かつ情熱的。交際した場合、我慢してしまうのではないかと思うと、は不安でたまらない。どんなに不満があっても、自ら言い寄ったのだからと、のことを切り捨てきれないのではないか。本来ならば、青く甘酸っぱい恋を実らせる時期を、自分という存在が腐らせてしまうのではないか。禁断の実を味わう相手が、果たして自分で良いのか。は喉の深い場所で唾を飲み込むと、これだけは言っておくべきだから、と、その内容を繰り出した。本当に交際を始めるとして、あなたは若いから、いくらでもやり直せる。私が若くないからと言って、責任を負う必要はない。ダメだと思ったらすぐに離れていい。その内容は、が裕介を想う故であるが、言われた本人にとってはあまりに不服で、眉間にいくつもの皺が寄っている。

 「だから……」

 開いた口が塞がらない、と言わんばかりの裕介は「やれやれ」と(かぶり)を振ると、の瞳をまっすぐに見すえ、言い聞かせるように低い声でゆっくりと伝える。

 「オレはさんを大切にするために、さんの隣にいたいっつってんショ」

 裕介は左手での右手を覆った。長い指に包まれて、小さな手が隠れてしまう。

 「それこそ、“いい大人”なんだから、いい加減、気づいてほしいス」

 優しい二つの光が、の双眼を照らす。裕介は、ゆるやかな動きで右手をの頭へ伸ばすと、子供をあやすように撫で始めた。

 「あーあ……。どっちが子供なんショ、もう」

 の目から、涙が溢れ出す。それを止めきれないまま、泣きながら、はごめんなさい、と裕介に謝った。嗚咽まじりになりながら、繰り返し謝罪する。何度も、何度も。止まない懺悔は、主語を持たない。

 「何に、謝りたいのか言うっショ。こういうときは全部吐き出しちまったほうが楽なんだ」

 小刻みに揺れる肩を落ち着かせようと、裕介は大きな手で、の背中へと一定のリズムを刻みこむ。

 はしばらく考え込むように歔泣(ききゅう)する声を漏らす。涙に塗れた双眸が裕介を捉え、その下にある紅い唇は次々と謝るべき理由を告げる。

 ────好きになってしまったことに。

 「そこは謝るところじゃないっショ」

 ────何度も歩み寄ってくれたのに、突き放そうとしたことに。

 「そうだな、それは謝って然るべきところだな」 

 ────ズルい大人であることに。

 「言ったショ、オレはそこも含めて嫌いじゃないって」

 ────最低な女であることに。

 「さんが最低な女なら、オレは最悪の男になってやるショ」

 そして────普通の恋愛をさせてあげられないことに。

 「クハ……ッ! オレはなァ、さん。イレギュラーが得意なんだ」

 得意気に笑う裕介の背中に、そうっと手を伸ばす。すると、が抱きしめるよりもずっと、遥かに強い力が肩と背中に加わった。

「オレのこと、意識してくれてたんだろ。意味のねェ言い訳ばっかしてんじゃね───よ、さん」

 裕介が微笑する。真夜中なのに、陽だまりの中にいるような笑顔だ。長い指がの髪を静かに払って整える。宝物を触れるようにそっと、やわらかな唇が、の額を温かくした。




イメージBGM:Yogee New Waves「CLIMAX NIGHT」





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