第五話




 天気のいい朝だった。雲ひとつなく、太陽が青々とした空を照らしている。わずかに冷たい空気が、布団から出た裕介の体を震わせる。彼の視線は思わず気温計つきの時計に行く。室内が十七度であると示している。道理で、と納得したように頷くと欠伸をして目をこすり、バスルームを目指す。

 ナイトキャップを取り外すと、玉虫色の髪がゆらりと現れた。手首につけていたゴムで髪を一括りに束ねる。コックを捻ってぬるま湯を出し、顔を洗う。タオルで水気を取り化粧水をつける。マウスウォッシュで軽く口をゆすぐと、用を足してキッチンへと向かった。

 食パンにピーナッツバターを塗り、冷蔵庫から牛乳を取り出して飲む。昨晩印刷した地図に表示されたルートを人差し指でなぞる。裕介の家からの家へとつながる道だ。午後四時、直接行くことになっている。

 出かけるまで四時間はある。浮き足立つ裕介は居ても立ってもいられず、外へ出た。手土産を何か一つ買おうと、店が並ぶ通りへと向かう。店を回るため、自転車に留守番をさせた。

裕介は甘い菓子の置いてある店にばかり入る。がディカフェの紅茶を用意して待っている、と言っていたからだろう。

 外壁が深緑色の店に入ったのは本日二回目だ。最初に来て、次に他の店を二、三件眺め、また戻ってきた。裕介は、ショートブレッドが入った紙袋を手に下げてその店を後にした。思いのほか手土産が早が決まってしまったようだ。時計台に表示されている時刻によると、まだ家を出てから一時間しか経っていない。ふらふらといくつかの洋品店や靴屋を見て回ったが、上の空の裕介には目ぼしいものがないらしい。しかし店の窓に映る自分をチラチラ見ては、何かを気にする様子を見せる。途中で立ち止まり、首を傾げると、そのまま勢いよく家へ戻ってクローゼットを漁り始めた。要は、現状の格好に満足が行かなかったのだ。

 いくつかの洋服を合わせたり眺めたりした後、初日にからもらった洋服へと着替えた。厳密に言えばアルバートが選んだものだが、裕介はそれを知らない。が紙袋に入れたものを渡してくれた事実だけが思い出としてあるのだ。トップスは、紫と黒と白のパッチワーク状の半袖。ボトムは、スリムなシルエットで、トライバル柄が目立つイエローのパンツ。サンプルとはいえ、上質な生地を使ったそれは着心地が良い。ようやくしっくり来たのか、裕介は頷く。外出時間までは残り二時間。その前に昼食を済ませようと、エプロンをかける。冷蔵庫を開け、卵、ベーコン、粉チーズを取り出す。パスタは戸棚から。鍋に水を並々と注ぎ、火にかける。その間に(レン)へ声をかけると「オレも食べる」と返ってきたため、パスタを二束用意した。

 廉とふたり、向かい合ってパスタを食べる。廉にとってはブランチだ。

 「いつもと味が違う」

 「あー、ニンニク入ってないからショ」

 「……なるほどな」

 「その顔やめろショ、兄貴」

 「いい服着てるじゃないスかー! ソレ、どこのブランドっスかー?」

 「うるさいショ、メシ取り上げるぞ!?」

 「悪ぃ悪ぃ」

 まったく悪びれる様子なく、廉は屈託無く笑った。

 「そういえば東堂くんの電話かメール、返してやれよ。さっきオレにまで電話来たぜ」

 「マジかよあいつ……」

 そう言われてポケットの中の携帯を見ると、昨晩から留守録が四件溜まっていた。からのものがあったらと考えたのか、少し慌てた手つきで履歴を見る。どれも「東堂 尽八」と表示されているのを確認すると、眉間にしわを寄せて飽きれた嘆息を漏らした。

 「出かける前には確認するショ」

 「周りの人は大事にな。日本離れると疎遠になるヤツばっかりだよ。ま、都合のいいときは連絡くれるけどな。なんでもないのにこんなに頻繁に連絡くれるようなヤツ、なかなか出会えないぜ。裕介なんか特に連絡不精だからな」

 「まァ……大事にできるよう精進するショ」

 食べ終わった裕介は部屋に戻り、荷物の最終確認をしながらスピーカーモードで留守録の再生ボタンを押す。

 一件目。

 「巻ちゃん! メールだとなかなか返信が来ないからな! 電話にした! 出てくれ!」

 二件目。

 「すまなかった。最初に電話をかけたときはそっちは深夜の三時だったのだな。今は午前十時頃だと思うが……寝すぎは健康によくないぞ、巻ちゃん。また電話する」

 三件目。

 「やぁ巻ちゃん! なかなか電話に出てくれないから巻ちゃんの兄君(あにぎみ)に連絡をしてみたのだ。すると何だ! 年上の女性にうつつを抜かしていると言うではないか、巻ちゃん! 自転車ばかりだと思っていたおまえが女子に興味を持つとは感慨深……。あッ、今最後まで聞かずに切ろうとしたな? 待ってくれ巻ちゃん、ここからが本題なんだ!」

 まるで留守録とは思えないほど喋り倒しだ。実際、裕介は通話終了ボタンに親指を運んでいたところだった。あと一秒遅ければ切っていた。通話終了ボタンから指を浮かせ、再び受話器を耳に当てる。

 「立場や年齢の差ゆえに苦しい恋をしていると聞いたよ。だから──オレが知る限り、不測の事態が最も得意なクライマーの言葉を教えよう。そいつは『若さというのは、いつもぶつかって失敗して潰れて思い通りにならず、クチャクチャになる。ところが万に一度、誰しもが想像できなかったことをやってしまうことがある』と言った」

 裕介の肩がピク、と動く。

 「巻ちゃん。彼女にぶつかっていったか? オレにはこの言葉、まずはぶつからないと失敗も成功もないと聞こえる。ぶつかった先に、想像できなかったことが待っているのだと。なに、巻ちゃんは元から髪の色も自転車の乗り方も風変わりではないか。恋愛だけはマトモなんてつまらんだろう? なら試してみるのもいッ…」

 ピー、と電子音が鳴る。無機質な声が『メッセージは以上です』と繰り返す。どうやら録音可能時間を超越してしまったらしい。言い足りなかったのか、東堂からの留守録はあと一件残っていた。時間のなかった裕介は、それを一瞥すると「あとでいいショ」と携帯をポケットにしまう。

 「まさか過去のオレの言葉に励まされちまうとはな」

 自虐的に鼻で笑うと、カバンを背負って部屋を出た。行き先はの家。印刷した地図もポケットに入れてある。玄関のドアを開けると、ふいに吹いた風が裕介の髪をなびかせた。

 「天気いいな」

 手土産が入った紙袋をハンドルにかける。サドルに跨り、ペダルを踏み込むと、ぐんと前進する。走り出した裕介は、目的地まで止まらない。



 時刻は十五時五十五分。約束の時間まであと五分まで迫っていた。は茶葉とマグカップを用意し、テーブルを再度台拭きで磨く。落ち着かない様子だ。そわそわとリビングやトイレを見て回っている。ふいに携帯電話の呼び出し音が鳴り、手に取ると[着信:巻島 裕介]と表示されていた。通話ボタンを押して応答する。

 初めて走る道で赤信号に何度もかかってしまったため、少し遅れるのだと裕介は言う。彼の家からの家は、それなりに長い距離がある。前日「自転車で行く」と言われていたものの、地図を確認したらバスで来るはずだろうと想定していたは驚嘆した。そして安全運転で来るように伝える。また、自転車一台程度なら玄関に立てかけられるだろうからわざわざ解体しなくても構わないと告げると、裕介は「さん、察し良すぎっショ……! ありがてェ」と驚喜した。裕介のカバンの中に折りたたまれて収容されていた輪行袋は、用をなくした。あまりに嬉しそうな裕介の声音に、は思わず吹き出した。裕介の耳へ、鈴を転がすような笑い声が響く。耳心地のいいその声を聞いているうちに、周りの車が進み始めた。十六時五分を目処に到着することを告げると電話を切り、またペダルに力をかけた。信号は青。周囲と共に進み出す。真っ黄色のロンドンタクシー。赤いバス。ブロンドヘアに青いパーカーを纏った少年。グレイヘアに臙脂色のポロシャツが映える老爺。奇抜な色の裕介の髪も、色とりどりなロンドンに混ざれば溶け込んでしまう。


 宣言通り、十六時五分にノック音が鳴った。三回。ドアの丸窓から外を確認すると、片手で自転車を支えている裕介が見えた。ドアを開くと、カラカラと車輪の音を響かせながら入り込む。汗ひとつかいていないことをが指摘すると、裕介ははにかんでカバンからハンドタオルを出した。種明かしをされたことで、裕介から漂うデオドラント用品の清爽な香りを嗅ぎ取ったは、ディオールのデオドラントスプレーかと尋ねる。裕介は目を見開いて「その通りス」と感心した。以前、メンズの香水かデオドラントグッズを企画した際に色々試したのだとは説明した。結局その企画は取り止めになり、服飾一筋で行くことになった。半年ほど前の話だと言う。またしても、裕介の知らなかったの姿が見えた。

 リビングのソファに腰掛ける裕介へ、紅茶とショートブレッドを差し出す。裕介が手土産に持ってきたものだ。パッケージには、青と緑のタータンチェックで描かれた鹿が最前面に配置されている。フォートナム&メイソンのオーソドックスなショートブレッド。紅茶は、が用意したトワイニングのアールグレイ。ディカフェであることを伝えながら裕介に薦める。

 想定より熱かったのか、裕介は「アチッ」と小さく声を上げたのち、息を吹きかけて冷ます。ゆっくりと喉を潤すと、静かにホッとため息をつく。

 「さんが」

 ショートブレッドを長い人差し指と親指で摘む。

 「自分ん家が一番好きっての、メッチャ分かります」

 口の中でサクサクと噛み砕くと飲み込み、

 「すげー落ちつくショ、この空間」

 と部屋全体をぐるりと見渡した。

 別段、変わったもののない部屋だ。変わったものがないゆえに、安心するのかもしれない。ソファーとテーブル、テレビ、マガジンラックにいくつかの雑誌。壁には小さな絵画が数点飾られている。派手な絵ではなく、どちらかといえば牧歌的な。色彩豊かなのは裕介ただ一人だ。だからこそ、裕介のために用意された空間であるようにも見える。モノトーンで構成されたインテリアの中で、唯一異彩を放つ。は、部屋に花が飾られたようだと裕介に伝えた。裕介は頬を赤くして「男に“花”は、ないショ、さん」と照れ臭そうに眉を下げて笑った。


 ふたりは何をするでもなかった。気の利いた会話をするのは裕介は苦手だったし、も仕事以外ではどちらかというと寡黙だ。仕事の話をしたり、ショートブレッドが美味しい店について話したり、ロードバイクの話をしたり、それなりに会話はしていたが、その合間合間に無言の時間があった。それは悪い沈黙ではなく、自然で、ゆるやかな時間の流れをふたりで共有しているような雰囲気だった。

 ソファの近くにあった本棚にトランプを見つけた裕介が、特技を披露する。高校二年の文化祭で行ったトランプマジックを次々と演芸し、まるで道化師のようにを楽しませた。



 血の繋がりのない男女がふたり。同じ空間、その上プライベートな場所にいたら、それとなく色気のある状況へ陥るのが常だ。裕介はに下心を感じさせないよう、トランプで道化を演じ続けた。年甲斐もなくはしゃいでしまったと笑うに、裕介は何ともいえない表情を見せる。最近、いつもそうだった。が年齢について少し自嘲的な会話をすると、裕介は一見分かりにくく、でも確実に、物悲しげな顔をした。

 見せるマジックがなくなったら、裕介は自分の失敗談を面白おかしく話した。普段の裕介をよく知る者から見れば、不自然なほど明るい。その上、に手を触れないように意識しているようだ。挙動のおかしい部分すらある。それに気づいているのか、気づいていないのか、はまったくいつも通りだ。会社にいるときに裕介と接する態度と、まるで変わりがない。


 日が暮れて、紅茶もショートブレッドもなくなり、会話も減り、マジックも話も底を尽きた。潮時であるような空気が流れる。

 「オレ、そろそろ帰ります」

 そう言うとソファから腰を上げた。壁にかけてある時計に目をやったも頷く。

 玄関で壁に立てかけてあった自転車を起こし、裕介はと向かい合った。

 「あの、また来てもいいスか」

 の瞳が揺らぐ。今日はじめて、裕介に見せた女の顔だった。静かに頷き、顔を上げた瞬間、カシャンと何かが倒れる音がした。それが自転車だと気づいた頃には、裕介の腕に抱き寄せられ、唇を合わせていた。

 衝動的なキスだった。ほんの一瞬、触れるだけの。は目を閉じる間もなく口を塞がれた。その眼前には長い睫毛。裕介はそっと離れ、ゆっくりと目を開ける。困ったように笑う裕介を、月明かりが照らす。

 「なんて顔してんショ、さん」

 は半開きにした口を指先で抑え、焦点の定まらない瞳で虚空を映す。今されたことを確認するように、唇をそっと撫でると、問いかけるように裕介を見た。

 「……すいませんショ、抑えきれなくて」

 裕介の肩が震えている。制御しきれない感情を乗せるように、次々と言葉を繋げる。

 「けど、オレは本気ス。ダメだって言われても諦めきれない領域まで来てんショ。まだ逢って一週間も経ってないとか、若気の至りとか、そんなコト知ったこっちゃない。今、オレはって女に惚れてる。確かなのはその事実だけだ。けど、年齢がどうとか、立場がどうとか、言い訳って必要なんスか。正直、さんだってオレの──」

 その先は言わないで。そう遮断するように、は裕介の腕を静かに押した。ふたりの間に距離ができる。ほんの少しの拒絶。しかし裕介には、充分すぎるほど伝わった。

 またここへ来てもいいから、時間がほしい。自分には、覚悟を決める猶予がほしい。はその内容を裕介に言い渡すと、一歩後ずさりをして裕介を見る。それでもいいか、と質すような、真っ直ぐな目だ。

 「あ──ッ……ズルい大人ショ、さん」

 裕介は側頭部の髪を掴むように手で抑え、ため息をつく。

 「………けど、オレはそういうトコも含めて、さんのこと嫌いじゃない。だから軽はずみに“オレたちなら大丈夫”なんてクサいこと言えないス。オレだって、正直……答えは分かんないです……ショ。続くとか続かないとか、イイとかダメだとか。けど────さんが踏み込んでくれるなら、オレはいつでも、一緒に飛んでやるショ」

 倒れた自転車を起こすと、「じゃあ、また」と裕介は去ってゆく。放心状態のを、玄関の明かりだけが見守っている。まるでピンスポットを当てられた舞台女優のようだった。




イメージBGM:七尾旅人「サーカスナイト」





←4 | 6→




inserted by FC2 system