第四話




 裕介の悪い予感はよく当たる。

 それは本人も自覚しており、なるべく想像したり口にしたりしないようにしているほどだ。しかし無意識とは恐ろしいもので、階段を下りながら裕介は一つの言葉を洩らす。

 「やべェ、間に合わねェかもな…」

 イギリスの電車は日本のそれと違い、時間通りに来ることが少ない。基本的に遅れて到着するものだ。長い時は五分ほど遅延する。終電近くなればなおさらだ。楽観的に考える余地は大いにあった。事実、今日も電光掲示板に表示されている到着時間を二分過ぎていた。

 ところが、裕介の言葉を引き金にしたように、電車がホームへ入ってきてしまった。

 「さん!」

 裕介は階段から呼び止めるが、電車の音でかき消され、誰も気づかない。

 電車のドアが開き、はアルバートと話しながら中へと入り込んでゆく。

 向かいのホームにいる(レン)へ、皆と手を振る。彼の隣に裕介がいないと気づいたは視線を漂わせる。すると、廉が何かを叫びながらの後ろを指差し始めた。振り向くと、階段を慌てて降りてくる裕介と目が合った。が口を開いたのとほぼ同じタイミングで、アルバートが背中を押した。生粋の英国紳士である彼が、女性に対してこんな真似をするのは今回きりだろう。バランスを崩したがホームへ放り出された。

 彼女を受け止めたのは裕介の胸板だ。反動で尻餅をつきそうになったが、大きな右手がの背中を支えた。顔を上げると、困った表情をした裕介が左手で前髪を掻きあげながらアルバートを見ている。直後、の後ろにあった電車のドアが閉まる。音に驚いたが振り返るが、電車はすでに出発していた。同僚たちの輪郭や洋服の形がぼんやりとしか分からない程度には、すでに離れて加速してしまっている。

 ホームに取り残されたふたりを、沈黙が包む。

 の背中に当てていた手をそっと離すと、ふたりの間に少し距離が生まれた。の視線は右斜め上だ。そこにある電光掲示板は、現在の時刻と、次の電車は翌朝まで来ないことを告げている。

 「えと…すいません、オレ……」

 裕介は気まずそうに目を泳がせる。はふっと笑い、ロンドン入門者である裕介に地下鉄事情を説明したのち、路線を変えればあと十分後までは問題ないのだと自慢気に話した。ただ、一度駅から出て五分ほど歩かなければならないため、この駅にいられるのは残り五分。その間に要件は済むかと聞けば、裕介はぎこちない笑みを浮かべて頷く。

 「さん、怒らないんスか?」

 多少は、と答えるの表情に変わりは見えない。本当に帰れない場合は真剣に怒っただろうが、帰れるのだし問題ない、と何も起きていないかのような口ぶりで、階段を登り始めた。裕介はの歩幅に合わせて歩く。視線の先は、一段上にいるの横顔だ。

 許された時間は三分。裕介の終電が、その頃に到着する。階段の踊り場で立ち止まり、ふたりは向かい合った。金曜日の夜だが、さきほど片方の終電が出発した駅は閑散としている。裕介が唾を飲む音が、やけに響いた。まごつく暇はもうない。

 「明日か明後日、どっか行きませんか」

 裕介は愛想よく笑ったつもりのようだが、緊張のせいか顔が強張っている。

 「……ふたりで」

 そう付け加えると、はほんの小さく驚きの声を上げた。



 電車の中で、は窓に映る自分の顔をぼうっと眺めていた。何の変哲もない、どこにでもいるような三十歳の女性だ。実年齢より多少若くは見えるが、それ以外に特徴はない、普通の顔をしている女がいる。裕介のように髪の色が派手なわけでも、スタイルが特別いいわけでもない。

 裕介からの誘いに対し、返事は保留にした。裕介の電車が間もなく来る頃だったことを理由に、スケジュールを確認して連絡すると約束したのだ。しかし実のところ、この電車に乗る前、駅までは裕介が送っていた。階段の踊り場にいる時間が長かったため、ふたりの様子を見に来た廉が、事情を聞いてそうするように促したのだ。裕介は押し付けられるようにして渡された輪行袋を受け取った。それを見届けた廉が、終電のために駆け下りてゆく。彼が下へ着いた瞬間、電車が入構し、手を振る廉を上からふたりで見送ることになった。計ったようなタイミングだった。取り残されたふたりは、駅員から今の電車が最終だと出て行くよう注意される。裕介は「じゃ……ま、行きますか」と、の目的駅まで歩き始めた。

 このとき、時間があったにも関わらず、は返事を返さなかった。スケジュールを確認することにそれほど時間がかからないことは、互いに分かりきっている。カバンの中の手帳は、今週末に何も予定などないことを告げている。気まずい雰囲気が流れていた。それでも裕介は、無言での歩く速度に合わせ、彼女を気遣うように道路側についていた。ふたりとも、何か会話をしようと口を開けることがあったが、どちらも言葉にすることはなかった。何を言っても白々しくなりそうな、長い五分だった。

 が改札を抜けて手を振ると、裕介も左手を上げる。の背中が見えなくなるまで、裕介は見送っていた。振り返らないは、そのことを知らないまま電車へ乗った。

 自分の顔を見ているのにも飽きたのか、は電車の中で携帯電話を開き、いくつかの連絡先を辿った。親族。幼馴染。高校時の同級生。大学時の同級生。同じ趣味を持つ友人。仕事で知り合った人々。タクシーの運転手。行きつけの店。数十年の軌跡が、そこにはある。少しすると画面を閉じ、かすかな声で、誰にも、と一言呟いた。その先は言わなかった。



 「あ──っ!! あ───っ!!」

 裕介は声を上げてロンドンの街を走る。

 「失敗したっショ、最悪だ!!」

 ハンドルに突っ伏すような体制でペダルを回す。と離れて十分後、組み立てたロードバイクで、裕介は深夜の帰り道を走った。ポツポツと光る電灯が、間間にその姿を照らす。

 「……早すぎたんだ、何もかも!! さんすげェ困ってたっショ!?」

 裕介は反省点を次々と口にしながら舌打ちをしたり再び「あー」と叫んだりため息をついたりと忙しない様子で前に進む。しばらくすると無言になり、虚ろな目で走行し始めた。進行方向に顔は向けているが、風景を認識しているようには見えない瞳。口に出さずとも、何かを考え込んでいるようだ。そのせいで、裕介は廉を追い越していたことに気づかなかった。危ないぞ裕介、と呼び止める大きな声に反応し、ブレーキをかけて振り向いた。家まであと五分の距離だった。裕介は決まり悪そうに「あァ……。すまねェ、兄貴」と苦笑するとロードバイクから降り、廉の左隣を歩き始めた。

 裕介に結果を聞くが、一言二言の煮え切らない返事ばかりが戻ってくる。

 まァ。んー。多分。

 どれも確実な肯定とはいえない。その様子は、誰が見ても、から良くない反応を受け取ったであろうことは明確だった。廉は眉を下げて裕介を見る。

 「ごめんな、オレが急かしちまったから」

 「クハ、兄貴のせいじゃないショ」

 素直に認める裕介の様子は痛々しい。どこか諦めたような、自嘲的な笑みを浮かべている。これ以上は聞くまいと言うように、廉は話題を明日の朝食へと移した。裕介は依然として上の空だった。その横で廉はため息をつく。いっそ八つ当たりでもしてくれりゃあな、と呟きながら裕介に目をやっても、口を真一文字に閉じて前を向いているだけだ。何かを思い悩んでいる表情だった。



 土曜日の朝。裕介に何も連絡できないまま、金曜日の夜は過ぎ去っていった。携帯電話の画面に連絡をしなければならない相手の情報データを表示したまま、いつの間にか眠ってしまっていたのだ。もちろん、答えはまだ出ていない。寝ぼけ眼でパソコンの前に向かうと、

 「年の差 恋愛」

 と検索をかける。コンマ数秒で、その単語に応じた検索結果が表示された。どこをクリックしても、男性側が年上のケースである記事ばかりだ。少しスクロールすると、一つのアンケート記事がでてきた。そこには年上女性で付き合えるのは十歳までだと思う人が最多、という投票結果があった。一方で実際に交際している人物は極めて稀だった。さらに、その数少ない実例の中では、男性側も成人している。参考にならない記事に嘆息を吐く。

 背骨の音を鳴らすように背伸びをして立ち上がると、コーヒーを入れて郵便物を受け取りに外へ出た。

 外では雨が降り始めていた。これくらいの小雨であれば構わないと思ったのか、は傘をささず、そのままポストへ向かう。

 時を同じくして外出したケイトと目が合い、嫌な天気ね、と挨拶を交わす。夕方にアフタヌーンティーをしようと提案され、は快く受け入れた。ケイトのアフタヌーンティーは変に気取っておらず、ただ午後四時ごろに二人で紅茶とお菓子を食べるだけのものだ。はその時間を気に入っていた。または、裕介の誘いを断る口実を探していたのかもしれない。

 ケイトと約束をしている間にも、小さな雨粒がしとしとと地面を濡らしてゆく。雨足が早くなった。二人は、また後で、と言い合うと互いに急いで部屋へ戻っていった。薄い灰色をしていた道は、瞬く間に濃く染まってゆく。

 部屋に戻ったは特に意味もなく、現実逃避のように再びパソコンの前に座る。画面をつけると、先ほどまでの検索結果が表示されたままだった。閉じようとした際に誤ってどこかのリンク先をクリックしてしまい、一つのページが開かれる。

 投稿者の質問に対し、様々な人物が回答をしてゆく形式のページだった。

 質問。十歳近く離れている男性にデートへ誘われました。誘いに応じてもいいと思いますか? ちなみに、私が年上です。

 回答。そんなことを聞いている時点で、その人と恋愛したい気があるってことじゃないですか。



 裕介は雨の音で目覚めた。窓を叩く雨粒が重なり、打楽器のような音色を奏でている。せっかくの休日だと言うのに、悪い寝覚めになった。携帯電話を見ても、からの着信はない。東堂が留守録に残していたメッセージを確認する。大した内容ではなかった。折り返すこともなく、再びベッドへ寝転ぶ。近くのマガジンラックからグラビア雑誌を一冊取り出して眺める。若い女が水着を着ている写真には、「“初めて”だらけのフレッシュな十六歳!」というキャッチコピーが添えられている。強い日差しの中で眩しい笑顔を見せる彼女は、今日の天気とはまるで真逆の存在だった。

 雑誌を一通り読み終えると、キッチンへ朝食を取りに行く。廉はすでに外出したあとだった。ベーグルにいちごジャムを塗り、手を合わせてから咀嚼する。牛乳を取り出すとコップに注いで、ストローでゆっくりと流し込んだ。気だるい朝の空気がキッチンに充満している。曇り空がシナジーを起こしているのだ。

 食器を洗って部屋へ戻ると、携帯電話に着信があったことを知らせるライトが点滅していた。滅多に気にすることのないそれを奪うように掴むと、画面を確認する。

 着信あり [ ]

 メールを開けると、件名は無題で「明日であれば大丈夫です。」とだけ書かれた文章が入っていた。

 「ショォ!?」

 裕介の叫び声がアパートの一室を駆ける。隣人から壁を叩かれた裕介は口を抑えた。そのまま、火照った頬に手を添える。再度、携帯の画面を見ると「明日であれば…」の文面が覗いている。裕介は腕が振れるほどに強く拳を握った。

 机に置いてあった電話帳をパラパラと捲り、の番号を探し出して打つと、そっと発信ボタンを押す。コール音が裕介の耳に響く。はなかなか受話器を取らない。留守録にメッセージを残すことを考え始めた刹那、の声が裕介の左耳をくすぐる。


 午前十一時に落ち合って、昼食をすることが決まった。だが、肝心の場所が決まっていない。は裕介にどこか行きたいところがあるのかと尋ねる。ずいぶん前から用意していたかのように、裕介は流暢に返した。

 「イギリスでさんが一番好きな場所に連れて行ってください、ショ」


 との電話が終わり、明日の約束は取り付けられた。の答えには驚かされたものの、裕介の口角が上がっている。

 イギリスで一番好きな場所というと、もしかしたら自分の部屋になるかもしれない。

 口をつくように回答したは、自分の口から放たれた言葉を反芻して目を見開く。ふたりの間に、一瞬の静寂。は狼狽した声を上げ、それ以外、他だと、と続けようとした。しかしそれを遮るように、

 「さんがいいなら、オレ自転車で家まで行きます」

 と裕介が押し切った。そして──明日はの家で過ごすことになった。

 電話を切った後、裕介は携帯電話を持ったまま、両手で鼻頭を抑えるように顔を覆う。そして、深く長い溜息を吐いた。

 「誤魔化しきれねェ」

 両手の下でくぐもった声が響く。

 「期待してんだオレ、さんに」

 手元の携帯電話を操作すると、の写真を表示させる。

 「……早く会いたい……って、安いドラマみたいこと思っちまってる」

 を想う裕介の声は温かく優しい。想定外の声が自身から発せられたことに可笑しさを覚えたのか、裕介は腹を抱えて笑い始める。

 「クックッ……柄でもねェ!!」

 束ねられていない玉虫色の髪が、しばらくゆらゆらと揺れていた。



 時刻は同日、午後の四時。

 約束通り、はケイトと紅茶を飲んでいた。傘立てには、少し濡れた紺色の傘。その下にある玄関マットの一部は、靴の形に変色している。の足のサイズだ。

 ダイニングに通されたは、アールグレイにママレードのジャムを溶かしながら、ケイトの話を聞いている。最近あたらしく登場したトリートメントの話。チョコチップスコーンはどこの店のものがおいしいか。好きな柔軟剤の話。他愛もない会話ばかりだ。ケイトの計算だったのかもしれない。が話しやすくなるように。プレタマンジェに来る客の話になった流れで、ケイトは裕介について聞いた。明日、家に遊びに来るとが答えると、タイムリーな話題ね、とおどけてみせた。

 「店の中から見て思ったけど、あなたって彼といるときすごく楽しそう」

 ケイトの店に誰かと一緒に行ったのが初めてだったからそう見えたのだ、とが言い訳をする。そんなの様子に不思議そうな顔をする。

 「楽しいって気持ちに嘘をついてたって、何も得はしない。そう思わない?」

 紅茶の中でゆらめくママレードの皮を見ていたは顔を上げる。

 「会いたいって思える人がいるのは素晴らしいことじゃない」

 まるで毒のない笑顔で、ケイトはに微笑みかける。

 「きっと明日はいい一日になるわね」

 は捉えどころのないような、しかし少し不安そうな顔をして、甘い紅茶を啜る。その表情とは裏腹に、外の天気は回復してゆく。雲間から太陽が見え始める。雨が徐々に上がり、部屋に眩しい西陽が射し込んできた。草木に残った水滴が、今、世界を煌々と輝かせている。




イメージBGM:ペトロールズ「雨」





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