第三話
夜が長くなり始めた、八月の終わり。
朝早くに昇っていた陽も、少しずつ遅くなってきた。今の時刻は朝の六時。東から少しずつ、太陽の光が裕介の部屋を照らしてゆく。窓の外では、早朝に降った雨が木蓮の葉を艶々と光らせていた。空には、故郷を目指す小さな飛行機が直線を描いている。バカンスの終焉を迎え、観光客の姿も落ち着き、いつもの様子へと戻ってゆく時期だ。いつもの、と言っても、裕介にとっては初めての光景だが。
明々後日、裕介はいよいよ大学へ入学する。学生としての生活が始まるのだ。毎日通っていた
携帯電話を流し見していた裕介の指が、一枚の画像を目に入れたことによって止まる。
イギリスに来てから購入した携帯にあるデータは、いくつかのメールと連絡先、そして五枚の写真だけだ。ロンドンアイ、ビッグベン、ウェストミンスター寺院、セントジェームスパーク、バッキンガム宮殿。ほとんどのピントがぼやけており、お世辞にも上手いとはいえない。ウェストミンスター寺院の写真に至っては、ワイパーが枠の中心に収められている。
その中の一枚、ビッグベンの写真には、の横顔が写っている。その背後に、ほんの小さく時計盤。言われなければ分からないほどで、何を撮影したかったのかと尋ねたらだと答えられたほうが納得するだろう。それほどに、も良い表情をしている。それには理由がある。このとき、裕介が無理な姿勢を取って撮ろうとしていたため、思わず笑っているのだ。作ろうとしたわけではなく、自然にこぼれた表情。目を眩しそうに細め、歯を見せている。
裕介は写真を撮ることなど滅多になかった。昔から作り笑いをすることが苦手で、カメラを避け続けていた結果、自分で誰かを撮影することもなくなった。頼まれればシャッターを押すことはあったが、その程度だ。これらの写真も、から撮らなくていいのかと聞かれ、流れで取り出した。の提案がなければ、裕介の携帯の写真データは未だにゼロだっただろう。
とビッグベンの写真をしばらく眺めた後、裕介は画面の表示を消し、ジーンズのポケットにしまった。時刻は朝の七時三十分。出発の時間だ。
裕介は会社へ向かう前、少し遠回りし、一軒のティーショップへ立ち寄った。が薦めていたオレンジジュースを二つ購入すると、紙袋へ入れてもらう。それをロードバイクの左ハンドルに掛け、零さないよう静かに走り始めた。
「兄貴」
地下鉄を使って出社してきた廉の姿が見えた裕介は、後ろから声をかける。廉は振り向いて足を止めた。裕介も速度を落とし、自転車から降りて廉の歩調に合わせて歩き出す。
「おう、昼飯買ってきたのか?」
「いや、ただのオレンジジュースっショ」
「それにしては大きすぎるだろ」
「二個入ってる」
「あァ……。さんにあげるのか」
「そうだな、そのつもりだったけど兄貴にやるっショ」
「なんでだよ」
「んー? いきなり渡したらキモいっショ」
「お前は悪い方向に考えすぎ。喜ぶと思うぜ?」
「そうかァ?」
「おう」
「……んじゃ、社長に従うわ」
「頼むぞ、新入社員」
「クハッ」
そう話している間に会社に着いた。裕介はロードバイクの解体があるため廉を先に行かせ、会社の前で作業を始める。ふと影が射し、視線を上へ向けるとが覗き込んでいた。
「おはようございます」
裕介がそう言って立ち上がると、もおはようと返した。そして邪魔をしてしまったことに対する謝罪をしたのち、どんな風に解体するのか気になって見ていたのだと説明する。組み立てる様子は見たことがあったが、解体の様子は初めて目にしたからだ。それを聞いた裕介は紙袋からオレンジジュースを取り出して、「コレでも飲みながら見てるといいス……ショ。あとちょっとで終わります」とに渡した。の表情がパッと輝く。裕介が覚えていたことを喜び、朝から思わぬプレゼントを受け取ったことに顔を綻ばせた。お礼を告げて受け取ると、さっそく透明なストローをオレンジ色に染める。
「そんなに喜ぶとは思ってなかったショ」
裕介はホイールに目をやりながら呟く。聞こえなかったは聞き返すが、裕介は「ただの独り言ス」とはぐらかした。
解体したロードバイクを輪行袋に入れると、が拍手をする。照れ臭そうに笑う裕介と共に階段を上がった。会社のドアを開けたのは裕介だ。そのままが入るまでドアを開けて待つ。そうして先に社内へ入ったの手にオレンジジュースを見つけた廉は、奥のデスクから裕介に向かって親指を上げる。それに対し声を出さずに「やめろっショ」と口を動かして裕介は返す。の目線はパソコンにあり、兄弟のやり取りには気づいていない。
書類や衣類の整理をしていた裕介に昼食の誘いをしたのはだった。廉と三人で近くのタイ料理屋へ行かないかと聞かれた裕介は、頷いて承諾した。「あとこれだけで終わるんで」と最後の一枚をラックに掛ける。青と白のペイズリー柄をしたワンピースだ。昨年の夏のコレクション。額の汗をジーンズから取り出したハンカチで拭い、と共に倉庫室を後にする。
廊下を歩きながら、なぜタイカレーなのか、という話をから聞かされた。それは五分ほど前、事務室で作業をしていた廉とは、暑い時期に辛いものを食べるのがいいという話になったからだと言う。そこでカレーの話題になり、昼に裕介も誘って近くでタイカレーを食べることになった。
事務室へ戻ると廉はすでに離席しており、先に席の確保をするべく店に向かっていた。会社からそこへ向かう五分半は、ふたりだけの時間となる。
外は涼しい風が吹いていた。まだ八月だが、すでに秋の空気を漂わせた街の中。と裕介の脚が並ぶ。ベージュの膝丈スカートに、両足に並ぶハイカットの赤いコンバース。その隣には、紫の左脚に、緑と黄のストライプが走る右脚と紫色のエスパドリーユ。四つの脚が道を往く。
緑色に白い文字でThai Metroと書かれた店のテラス席で、廉がふたりを手招きしている。裕介は手を挙げ、は小走りで駆け寄る。着席するとメニュー表を広げ、それぞれ好きなものを頼む。廉はマッサマンカレー、はグリーンカレー、裕介は名前が気になるとジャングルカレー。いずれも水を飲みながら待った。
「おまえ月曜から大学始まるんだよな」
廉が話題を切り出す。
「あァ」
「緊張するか?」
「多少はな」
裕介さんなら大丈夫、そうに言われた裕介は思わずガタ、と椅子を鳴らす。は、廉と一緒にいるときだけ裕介のことを「裕介さん」と呼ぶ。久しぶりに呼ばれたために驚いたのか体が震え、椅子にその振動が伝わってしまったのだ。
「あざす」
そう言って坐り直す。生温かい視線を感じ取った裕介は、テーブルの下で廉の足を小突いた。廉の笑みが一層増しただけだ。裕介は小さく舌打ちして水を飲む。
少しして三つのカレーが運ばれてきた。は携帯電話を取り出すと、三枚ほど撮影する。
「さん、そういうの撮るんスね」
は頷く。ブランドの公式SNSでは届いたばかりの新商品を撮影して告知することもあるため、綺麗に撮影するトレーニングとして日々なにかしらを写すように心がけているのだと言う。とはいえ食べ物が冷めるまでやることはしない、と眉をキリッと上げると、さっそくカレーに手をつけ始めた。裕介は数秒、空中に目線をやる。そして携帯電話を取り出して一枚撮影した。ナスや鶏肉などの具材がぷかぷかと浮かぶカレーは、どう撮っても美味しそうだ。
「ふたりとも、いい心がけだな」
廉はすでに食べ始めている。細長い米と赤茶色のルーをスプーンに乗せ、口へ運んでゆく。
裕介も手を合わせるとスプーンを手に取る。はその美しい動作をじっと眺めていた。
それに気づいた廉がに耳打ちする。
「こいつ、必ず『いただきます』するんだ」
は小さく感嘆の声を上げる。プレタマンジェでも手を合わせていたことを思い出したのか、納得したように首を縦に振る。
「兄貴、何か余計なこと言ってんショ」
「いや別に」
裕介は不服そうにテーブルの下で廉の脛を蹴る。
その日の夜、裕介はまたもパブに来ていた。いなくなるわけでもないのに、アルバートが「裕介おつかれさま会」をするために全員で飲みに行こうと提案したのだ。今度は廉も一緒に参加することになった。裕介は今日は飲まないと首を振ると、皆が声を上げて笑う。ジュースで構わない、今回は
前回もいた店員が裕介の前に料理を置く。
「ああ、君か。ロンドンの水には慣れたかい?」
「まだ慣れないんだわ。仕方ないからアメリカの泥水を頼んでるっショ」
そう言って裕介はコーラの入ったボトルを掲げる。店員は皮肉なジョークへ流暢に返してきたことに目を見開く。ヒュウ、と口笛を吹くとカウンターへと戻っていった。裕介の隣に座っていた廉も「やるな」と誇らしげに笑う。向かいに座っていたも微笑みながら首肯する。その手にはシャンディを持っており、頬が少し紅く染まっている。魚のフライをつまみながら、隣の同僚と話したり、裕介に話を振ったりと忙しない。饗応するのが好きな性分なのだろう。喧騒の中、裕介は本人に気づかれないようにをずっと見ていた。
「おまえさ、そんな目するくらいなら、せめてどっか誘えばいいだろ」
廉が裕介の右耳に囁く。
「それが出来りゃ苦労しないショ」
「明日と明後日、土日だろ。会社もないし」
「……大学始まったら別の女に興味沸くかもしんないショ」
「そのときはそのときだろ」
「けど断られたら兄貴だって会社で気まずいだろ」
「それはまァ、オレら大人だから心配すんな」
「えーと……アレだ、もしさんに彼氏いたら悪ィっショ」
「いないこと分かっててそれ出すのはダセェよ」
「……けどオレさんにただのガキとしか思われてないショ」
「さんが裕介はただのガキだって、おまえにそう言ったのか?」
「いや……でも高校を卒業したのは十年以上前とか、干支が一周離れてるとか、少し前に言われたんショ」
「『でも』『けど』『もし』で動かないようにしてると後悔するぜ?」
裕介は居心地悪そうに目線を逸らして舌打ちをする。
「こういう時はプラスに考えろよ。もしデートできたらどれほど楽しいかって」
「……」
「今日じゃなくてもいい、なんて言ってるとタイミング過ぎるからな」
裕介は無言でポテトのフライを口に含み、ゆっくりと咀嚼する。廉は裕介の背中を二回軽く叩くと、別の席へと移っていった。気づけばとふたりだ。の隣で彼女と話していた女は、廉について離れていったらしい。
「さん、あの──」
聞こえなかったのか、が前のめりになって裕介に近づく。サブリナネックの黒いトップスが揺れた。その下にある鎖骨の細さを、裕介は知っている。それを思い浮かべたのか、裕介は赤面した。追い討ちをかけるように、花の香りが裕介の鼻腔を蠱惑的にくすぐる。のシャンプーだ。
聞くべきことをすっかり忘れた様子の裕介は、
「なんであんなに介抱すんの上手いんスか」
と、まるでデートの誘いには関係のない質問をした。
は年齢的にそうなるものだと答える。裕介が複雑そうな顔をしているのを見て、納得いかないかと聞いた。裕介は頷く。するとは、昔の恋人が飲めないのに飲む人だったからかもしれない、と思い出すように笑った。
「『若い青年の誰しもが通る道』……」
前にタクシーでが言っていた言葉だ。裕介は、そういうことか、と納得したように指先を口元に当てる。にはかつて、裕介の知らない恋人がいた。年齢から考えれば恋人の一人や二人、それ以上いたとしてもおかしくはない。しかしの口から聞くとなると妙な現実味があったのか、どこでもない場所を虚ろな瞳に映していた。その後もが話しかけたりしていたが、どれも空返事だった。
裕介は廉と並んで駅のホームに立っていた。
時刻は夜の十一時半。廉が酩酊している様子を見た裕介は、電車に乗ることにしたのだ。右肩には輪行袋。左肩には廉のカバンを持っている。反対側のホームにはが立っており、数人の同僚も一緒だ。多くの同僚がと同じ路線を使っていた。とはいえ、廉の事務所に所属する社員数は裕介を入れてもたった六名。廉と裕介は一番ホーム、ほかの四人が二番ホームだということに過ぎない。ふたりだけの一番ホームで、廉は裕介に探りを入れる。
「で……誘えたか?」
少し酒臭い息を吐きながら尋ねた。
「いや……」
「はァ? おまえ何してたの」
「うるさいショ」
「裕介はメールがダメな奴なんだからさ、直接誘わないとダメだって」
「ダメダメ言い過ぎだろ……」
「つか、なんで誘えなかったの? 元彼の話でも聞いて凹んだか?」
「兄貴には関係ないショ」
「図星かよ。まぁさんの元彼わりといいヤツだったからな。酒は弱かったけど気さくでさ。でもおまえほどいいヤツじゃァない。おまえほど兄弟思いでいい弟はいない。まずロードレーサーとして有名だろ? 仕事も早いだろ? やさしいし、二か国語話せるだろ? あと、独特のセンスがあって、スタイルもいい。自慢の弟だよ」
廉が指を降りながら話す。顔は赤らんでおり、酔っている様子が伺える。
「酔っ払いながら褒められてもなァ」
とはいえ満更でもないのか、裕介は鼻を擦る。
「だからさ、やっぱり行ってこいよ、今。まだ間に合うから」
廉はまっすぐに裕介を見据える。
「好きになっちまったモンは仕方ねェだろ。いけるところまでいけよ。それがおまえだろ」
廉は裕介の足がよろけるほど強く肩を押す。反対側のホームにいるのところまで行くように、裕介をむりやり階段の方向へと進ませる。裕介は観念したように深いため息をつき、廉を見た。
「やれやれ、面倒臭い兄貴を持っちまったぜ」
そして走り出す。人混みをかき分けて階段を駆け上がる。その背中へ、廉が「がんばれよ!」と叫ぶ。裕介の左手が気だるそうに上がる。
の電車が来るまであと三十秒。
階段を駆け下りてくる裕介を、の瞳が捉えた。
イメージBGM:ENJOY MUSIC CLUB「夏の魔法」