第二話




 八日。裕介がイギリスへ来てから経った日数だ。初日の夜に空港へ着き、二日目と三日目に引越しの片付けや諸所の手続きを済ませ、四日目には(レン)の手伝いを始めた。裕介は「オイオイ、ゆっくり観光するヒマもねェのかァ?」と廉に悪態をつきながらも笑っていた。

 働き始めて三日後、裕介は、ある程度の雑用が出来るようになっていた。元々の飲み込みが早い性分と、興味のある業務内容だったことも相まって、吸収してゆく速度は驚異的なものがあった。アルバートや他の同僚に「さすが未来の副社長だな」と褒められては、満更でもなさそうな顔でニヒルに笑う裕介の姿が見られた。

 ただ、裕介がと接する機会は、ほとんどなかった。あの夜の一件と、その翌日以来、会話という会話をしていない。挨拶や電話の取次をする程度だった。

 そのため、社用でと関わるのは、今日が初めてのことだ。秋冬ものの商品サンプルが仕上がったため、パンフレット用の宣材写真を撮る現場に同行することになったのだ。



 慣れないカメラのフラッシュに目をしばたたかせながら、モデルが何度もポーズを変えてゆくのを眺める。

 数十枚撮ってはモニターで確認し、その都度が要望を伝える。今モデルに着させているトップスは、肩のラインが美しいため、そこを目立たせるべく、この角度から写したものも数枚ほしい。ボトムは左右でアシンメトリになっている色のコントラストを際立たせたいから、脚は開いて、影を作らないほうが好ましい。指示を出しながらも、は時折賛辞を交える。こういう魅せ方もあるとは気づかなかった、さすがだ。その言葉にモデルやカメラマンが気をよくし、スムーズに進行してゆく。は時折パッと裕介へ振り向いては、男性から見てどうか、十代の目線で古臭く映らないか、など聞いた。

 裕介は顎に手を当てて空を仰いだのち「何つうか、今は女から見てイイ感じなんス。男が買いたくなるイメージじゃないつか………うまく言えないショ」「古臭い? いや、王道のほうが安心するハズっショ。あ、けど兄貴は今回のコンセプトが『一新』だって言ってたから……そう考えると、ちょっと物足りないかもしれないスね」と意見を伝えた。はその言葉を一切否定することなく、頷きながら聞いては、いくつかの案を出して裕介の意見を反映させていった。


 帰りのワゴンで、は裕介を褒め立てた。あのような場では、萎縮したり恥をかくのを恐れて何も言わない新人が多い中、意見を言えるのは素晴らしい。その上、実用的な見解を聞かせてくれた。色々なものを見て、その意見を活かす解決案まで伝えられるようになったら、すぐにでも広報担当になれると賞賛する。裕介は顔を真っ赤にして、両手でシートベルトをいじりながら呟く。

 「さん、オレに『ダメだ』って言ったことないショ」

 それが聞こえたは首を傾げて、どうだろうか、と考えるような仕草をした。

 「クハ……無意識スか」

 裕介は嬉しそうに笑うと、それを隠すように左手の長い指で口元を覆い隠した。ダッシュボードと助手席の間にある足が少し窮屈そうだ。後ろに大量の衣料品を積んでいるため、シートを最大限前に固定しているのもあるが、裕介の脚が長いことも要因の一つだろう。

 「あ、あれ、ロンドン・アイ……っショ」

 大きな観覧車が少し遠くに見える。に乗ったか聞かれ、まだだと裕介は答える。実際、今のところ裕介が訪れたのは会社と自宅周辺、近くの丘程度だった。それを聞いたは、行楽地周辺をドライブして会社へ戻ることを提案した。荷物の関係上、車から降りて観光することはできないからだ。

 撮影の立会いをして、荷物さえ事務所に持ち運んだら、そのまま帰って良いと言われていた裕介は、断る理由もない。へ「お願いしゃす」と頭を下げる。

 は最初にティーショップのドライブスルーへ入った。助手席から裕介がアイスティを二杯注文する。一杯はデカフェだ。裕介は、カフェインが効きすぎるためコーヒーや紅茶は午前中しか飲めない。それを聞いたは、ジューススタンドにすればよかったと申し訳なさそうに言う。知らないことに気の遣いようはないスと裕介は返しながら、ドリンクホルダーへカップを置いた。は片手で運転しながら器用にアイスティを飲む。

 は、ここのオリジナルブレンドティーが好きで、会社の前によく立ち寄ると話した。チェーン店のティーショップではあるが、実はオレンジジュースも美味しいから頼んでみると良いと裕介に言う。裕介は「そうスね、機会があれば」と興味なさげに返事をしたが、手元のスマートフォンでは先ほどのティーショップについて調べている。自宅付近に一件あることを知ると、スクリーンショットで情報を保存した。は前を見ているため、裕介がただ携帯をいじっているようにしか見えていない。


 ロンドンアイ、ビッグベン、ウェストミンスター寺院、セントジェームスパーク、バッキンガム宮殿。ロンドンの観光場所をワゴンがのろのろと進んでゆく。現在、季節は夏の終わり。最後のサマーバケーションを謳歌している観光客と仕事帰りの者たちでごった返しているのだ。

 進みの遅い車中で、裕介は改めてに初めて逢い、介抱されたときのことに触れた。それ以外あまり共通の話題がないと思ったのかもしれない。するとは飲んだ中で旨いと思ったカクテルを裕介へ尋ねた。理由は、申し訳ないという気持ちより、楽しかった思い出を膨らましたほうがいいからだと言う。裕介は敵わない、というような苦笑を浮かべる。

 「強いて言えば、ギムレットスかね……。でもまァ、しばらく酒はいいっショ」

 裕介が苦い顔でそう言うとは声をあげて笑った。

 他にも、いろいろな話が飛び交った。はロンドンでこの仕事を始めてから車の免許を取ったこと。これまでにした仕事上の失敗談。裕介がインターハイで優勝したときの思い出。今日の感想。は裕介に対し、ほぼ用意された答えで済むような聞き方をして話を膨らませていた。世間話の苦手な裕介が答えやすいようにした配慮だ。インターハイは何月ごろに行われるのか。八月。去年は出場したのか。はいショ。自転車を始めたのはいつか。小学生の頃。

 そうして年齢の話になったとき、裕介がふとに打ち明けた。

 「オレ、実はさんて兄貴より年下だと思ってたんスよ。二十代前半にしてはすげー仕事出来るっショこの人って」

 はわずかばかり口を開けると、学生時代はとうの昔で、高校にいたっては卒業してもう十年以上も経つと笑った。幼く見えるのであれば自分の未熟さ故だが、若々しく見えるなら、それは楽しい仕事を廉にもらっているからだろうと告げる。

 事実、運転の巧さが年齢を物語っている。また、さきほどティーショップで出していた財布も、丁寧に扱われてはいるが数年前に発売されたアイテムだ。は裕介に生まれ年の干支を尋ねると、実にその一回り分、長く生きているのだと感慨深そうに言う。長く生きていても知らないことも多いしロンドンもファッションも楽しい、と話すの横顔はどこまでも前向きで、まぶしい。その輝きに見惚れながら、裕介は小さく呟く。

 「十二年……」

 その微かな声は、街をゆく車たちのクラクションによってかき消された。



 ふたりが会社の駐車場へと着いた頃には、日はとっぷりと暮れていた。後部座席から、大量の洋服を運び出す。裕介はこのために駆り出されたようなものだ。秋冬のコレクションは素材が重い。数点でもそれなりのウェイトがある。

 が一往復して三着のコートを持っていく間に、彼は二往復して十着を搬送していた。最後の二着を運び出したのも裕介だ。は礼を言ってトランクを閉め、鍵をかけた。コートを両手に抱えて階段を上る裕介の後ろについてゆく。

 エレベーターかエスカレーターでもあればいいものだが、建物が古いため、そういった装置はない。さらに、事務所の所在する階数は二階だ。だからこそ安く借りられている。廉は注目されているとはいえ、まだ駆け出しのデザイナー。事務所の賃貸へ無駄にかける費用はない。巻島家という家に頼ることなく独立するために渡英した廉は、プライベートも贅沢することなく、裕介とともにアパートの一室で暮らしている。

 そのアパートは職場から数キロ離れた場所にある。裕介はいつもそこからロードバイクで会社まで向かい、解体したバイクを輪行袋に入れて事務所の荷物置き場へ置いていた。日本より一層盗難率の高いこの町では、たとえ鍵をつけていても外へ放置するのは危険だ。兄からそう言われた裕介は、あまりしたことのないロードバイクの分解を密かに練習した。できる限り長く、愛車に乗っていたかったからだ。ペダルを付けたままの簡易な解体であれば、三分程度で片づけられるようになっていた。今日もまた、ロードバイクに乗って出勤し、輪行袋に入れたそれを倉庫室に収めていた。



倉庫室に最後のコートを運び入れ、ハンガーラックにかける。これで今日の仕事は終わりだ。裕介は奥に立てかけてあった輪行袋を運び出し、帰る準備をした。は倉庫室の鍵を締めると、自分のデスクへと戻ってゆく。

 「あれ、さん帰らないんスか?」

 は裕介へ、今日の撮影の報告を廉に送ってからにするのだと説明した。

 「……報告書の作り方知りたいんスけど、横から見ててもいいスか?」

 は一瞬迷うそぶりを見せたあと、大して勉強になることはないが構わないと隣の椅子を引いた。の右側に座った裕介は、輪行袋を右脇に抱えながらモニタを見る。

 そこにはスプレッドシートのソフトが広げられていた。本日撮影した洋服の型番とモデル、担当カメラマンの名前が並び、次いで写真のデータ納品予定日と紙面デザイナーへの発注状況が記載されてゆく。味気のない、報告だけが目的のデータだった。流暢に動く手元と、画面へ流れてくる文字列を眺めながら、裕介はただ黙って見ていた。

 そのデータを保存すると、メールソフトを起動させる。添付データとして先ほどのものをつけると、メールの件名に「20XX年度秋冬コレクション/パンフレット進捗状況」と入力する。本文に淡々と事実が記されてゆく。先ほどのデータを簡潔にまとめたものだ。詳細は添付データをご参照ください。そう末尾に書かれたメールが完成した。送信ボタンをクリックしようとしていたカーソルがふっと右下のメール本文へと戻り、

 「備考:新人・巻島裕介が同行。彼から伺った、

  1)男性目線での意見…男性の購入意欲が沸くポージングを追加で撮影

  2)十代目線での意見…これまでのイメージにない角度やアイテムを使った撮影

  を取り入れました。

  より良い新しさのあるパンフレットになることをご期待ください」

 と追記すると、改めて送信ボタンへカーソルを伸ばす。

 「んぉ!? いや! さんそれは送らなくていいっショ!!」

 裕介はそれを止めようとの手元へと指先を伸ばすが、その前に画面には「送信しました」のポップアップが浮かび上がっていた。しかし勢いづいた裕介の手は抑えられず、の手をつかむ。

 「あ!」

 裕介は思わず大声を上げた。

 も肩をびくっと震わせる。

 「さ、させん……」

 裕介は、先ほどと打って変わって限りなく小さな声でそう言うと、に触れていた手をゆっくりと離した。そのまま、離した手を頬に当てたり口元へ当てたりと落ち着かない様子で椅子に座りながら俯く。は座ったまま椅子を回し、裕介へ向き直った。は裕介の名前を呼ぶ。巻島くん。裕介は床を見ていた頭を持ち上げながらも、から目線を少し外す。そして、の口元を見ながら次の発言を待った。

 は彼に、自分の手柄は自分のものにして良いのだということを諭した。恥じることも遠慮することもない。良い意見が出せたのは今までの裕介の努力の結果だ、と伝える。裕介は唖然として聞いていた。クライマーとして彼が開花したころ、彼の先輩たちは自分が育てたのだと豪語した。特に何も言わなかったものの、腑に落ちない感覚があったことを裕介は覚えていた。年上の人間というのはそういうものなのかもしれない、と諦めていた裕介にとって、から放たれる賛辞の言葉は衝撃だったのだろう。

 呆然と聞く裕介へ、言いたいことは話したから帰ろうと告げ、は立ち上がる。裕介はハッとした顔をしてを見上げ、慌てて立ち上がり、椅子を元の位置へ戻す。再び輪行袋をかつぐと出口へと歩を進める。

 外に出て裕介がロードバイクを組み立てる様子を見ながら、は自身の手の甲を撫でる。裕介につかまれた手だ。つかまれたといっても、それほど強い力ではない。痛みはないはずだが、さするように何度も手を触った。感触を確かめるようにして、裕介の指先を思い出したのか、頬に朱が灯る。

 ロードバイクはすぐに組み立てられ、裕介が跨る。また明日、とが言うと「うす」と裕介が返す。裕介の家は会社から西の位置にあり、の家は東にある。ふたりは背を向けて進み出した。

 「あのッ」

 裕介がすぐに振り向き、を呼び止める。

 「兄貴からプレタマンジェのクーポンもらったんスけど、期限今日までで」

 意を決したように裕介は唾を飲みこみ、次の言葉を紡ぎ出した。

 「二人分あるんで、今から使いに行きませんか」


 プレタマンジェはサンドウィッチを取り扱うチェーン店だ。ファストフード店といっても健康志向で、合成添加物を一切使っていない原材料が売りの店。ただ、女性とのディナーには、お世辞にも向いているとは言えないだろう。その店頭に、ふたりは立っていた。

 テラス席の端にロードバイクを立てかけた裕介は、のために椅子を引き、食べたいものを聞く。

 は、レジをしている女性が自分の家の隣に住んでいる友人であるため、少し話したいと裕介へ伝える。そして裕介の買うものを聞き、金とクーポンを預かった。支払いは先輩としてが行おうとしたのだが、裕介に断られ、先日のお詫びとして受け取ってほしいと渡されたのだ。は、素直に受け入れた。ふたりで行かなかったのは、裕介のロードバイクを見ている誰かが必要だったからだ。

 が店内へ入ると、レジの女性が笑顔になる。裕介はテラス席から親しげに会話するふたりを眺めた。レジの女性は、と同じくらいの年齢に見える。不意にが裕介のほうへ手を向ける。その方向へ視線を移したレジ店員と裕介の目が合う。裕介が手を挙げて挨拶をすると、女性が両手を口元に当ててうなだれる。は眉を八の字にして双方を交互に見ながら笑う。少しするとレジの女性は起き上がり、へ向かって何かを尋ねると、彼女の手を取った。その手に赤いマジックペンで何かを書くと、金額を精算し始める。数秒後、レシートと飲み物だけが乗ったトレーを持ってが席へ戻る。

 「さっきの、何だったんスか?」

 は笑いながら、まず、レジの女性がイギリス人女性にしてはリアクションが大きいことを裕介に教える。裕介について、『高い鼻に切れ長の奥二重が異国情緒あふれて素敵、何よりも髪の色がパンクスなのにとてもよく似合っていて馴染んでいるのが最高ね』ということを言っていたと知らせる。

 「……動物園のパンダみてェな扱いショ」

 裕介は不服そうに眉を下げる。そうしているうちにテーブルへサンドイッチとスープが運ばれてきた。運んできたのは先ほどの女性ではない店員だった。

 サンドイッチを食べながら、車での話の続きをする。はロードバイクに興味を持ったようで、裕介から色々な話を聞きたがった。裕介がうっかり専門用語を言うと、がそれを拾って尋ねる。ケイデンス。山岳賞。クライマー。スプリンター。オールラウンダー。クリート。トルク。

 それらの説明を聞きながらアイスティを飲むの小指には、レジ店員の描いたハートマークが浮かんでいる。爪に油性ペンで描かれたそれは、蛍光灯の反射で、裕介の席から見えたり見えなくなったりを繰り返す。裕介は気になるように時折チラリと見やったが、何も聞かずにひたすらロードバイクの話をした。


 トレーの片付けは自分がすると裕介が言い、中の返却口へと運んでゆく。の友人である女性は暇そうにレジに立っていたが、裕介を見つけて声をかける。

 「たまに買いに来てくれてると思ったけれど、の後輩だったのね。私はキャサリン。ケイトって呼んで」

 裕介は改めてケイトに自己紹介をすると、の小指に描いたハートの意味を訪ねた。

 「我が家に伝わるおまじないみたいなものよ。いつか自身に意味を聞いてみて。彼女は知っているから。教えてくれないなら、それは彼女の秘密ということにしてあげて。あなた日本人男性だけど紳士のようだし、分かるでしょう?」

 裕介は腑に落ちない顔をしながらも了承すると、礼を告げての元へ戻った。時刻は八時。極めて健全な時間にふたりは店の前で別れた。は右へ、裕介は左へと向かう。

 「あら? おまじない……失敗かしら?」

 静かな店内で、ケイトが腕を組んだ。




イメージBGM:SIRUP「LOOP」





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