第一話




 ロンドンの夜で、恋が始まった。

 その日、裕介は仕事仲間たちとともにパブに来ていた。

 兄の仕事先であるデザイン事務所で雑用のアルバイトを始めた裕介は、大学が始まるまでの一週間は毎日、講義が始まってからは隔日で働くことになっていた。就業一日目である今日、歓迎会と称して連れてこられたのがこのパブだ。

 初めて酒を飲む場所に来た裕介は、居心地悪そうに椅子にかける。そもそも、歓迎会などの付き合いを好む性格ではないのだ。兄の面子にも関わると言われ、仕方なくついてきたものの、落ち着かずに手を頬に当てたり顎に当てたりしていた。

 すぐに人数分のビールが運ばれてくる。裕介は年齢を言い訳に酒を断ろうとするが、イギリスの合法飲酒年齢はちょうど十八歳。先々月、十八の誕生日を迎えていた裕介に有無を言わさず、まず一杯目が飲まされた。

 同僚やパブの店員は、初めて飲む酒はどうだ、イギリスはどうだ、次は何を頼む、と矢継ぎ早に裕介へ尋ねる。しかし、騒音とイギリス訛りのせいか、日本では得意だったはずの英語がところどころ理解できない様子だ。結果、彼はそれらの返答について、会釈してお茶を濁そうとする。その切り抜け方は失敗だった。相手に快諾だと勘違いされ、何杯もの酒が裕介の前に置かれたのだ。自分で頼んだことになっているそれらを飲まないのも悪いと思ったのか、裕介は懸命にすべてを空にした。ロンドンプライド三杯、ギムレット一杯、ジンベースのソルティドッグ一杯、ウォッカベースのドライマティーニを二杯。

 今、彼の目の前に置かれているのはジンベースのドライマティーニだ。それをぐっと飲み干すと、手を口元に当てながらゆっくりと立ち上がる。そしてトイレを目指して歩き始めた。ヨタヨタと進みながらトイレまで来たはいいものの、こぢんまりとしたパブには共同トイレが一つしかなく、その鍵は閉まっている。裕介は掌で口を押さえたまま天を仰ぎ見る。肩を上下に揺らし、鼻で荒い呼吸をしながら、ドアの前で鍵が開くのを待った。

 ところが、なかなか出てこない。裕介は額に脂汗をかきながら、込み上げてくる胃液と唾を飲み込む。足をふらつかせて壁にもたれかかると、頬に当たった壁の冷たさが心地よかったのか、掌の下で口角を上げた。


 しばらく戻ってこない裕介を心配して迎えにいったのはだった。彼女は裕介の先輩にあたり、広報部に所属する三十歳の女性だ。彼女は外部での打ち合わせを終えた後、この歓迎会へ合流していた。その頃の裕介はといえば、すっかり酩酊状態だ。彼の赤ら顔に気を揉んでいただからこそ、長い間席を外していることに気づけたのだろう。

 トイレの前で小刻みに震えている裕介を見つけたは、具合を尋ねながら肩を叩く。日本語で話しかけられたことによる驚きのせいか、裕介は一瞬、目を見開く。

 「う……日本語……ショ……」

 そう小さく呟くと、ホッとしたような笑みを浮かべた。しかしその安堵と身体を叩かれたことによる衝撃のせいか、裕介は耐えていたモノをその場で吐き出してしまった。

 店員は叫び、やっとトイレから出てきた男は「汚ねえな!」と罵倒し、通りがかった女性は「うわ」と避ける。近くで飲んでいた中年男たちはゲラゲラと品なく笑い転げた。トイレから離れたところにいる同僚たちは、まったく気づいていない。

 吐瀉物まみれの裕介に肩を貸し、便器の前まで運び、背中をさすりつづけたのはただ一人だった。右手で裕介の背中をさすり、左手ではトイレットペーパーでドア前の汚物を片づける。店員に謝罪をしながら水を持ってきてほしいと大声で注文し、少し落ち着いた裕介にその水を飲ませた。口の端から水を零した裕介の口まわりをハンカチでぬぐい、そのまま洋服の汚れもつまみ落とす。

 「すいません、オレ……」

 へ謝ろうとした直後、裕介を吐き気が襲う。ふたたび便器と顔を合わせることになった。その背中をゆっくりと叩きながら、は裕介の兄である(レン)へ電話をかける。急用の入った彼は、今日この場にいなかった。そのこともあり、裕介はこれほどの量を飲まされていたのだ。は裕介をタクシーで送ることを告げると、電話を切った。

 ようやく騒ぎに気づいた裕介の同僚たちが、トイレの前へと様子を見にくる。は彼らへ、今日はここまでにしようと伝えた。裕介に一番酒を勧めていたアルバートは申し訳なさそうに謝罪した。裕介は頷くのが精一杯だった。気まずい空気が流れる。が気を利かせ、勧めたのも悪いが、断らないのも悪い、両成敗だと笑う。白けた雰囲気が、少しやわらいだ。

 裕介と以外の同僚は、店員に謝りながら会計を済ませて店を出てゆく。裕介の耳には「また明日」「ごめん」「さん、あとはよろしく」と告げていく声が届いていたが、どれにも反応できず、ただただ胃の中のものを戻していた。


 ようやく小康を得た裕介は、改めてに礼を言う。するとは苦笑し、こちらこそ吐きそうなときに背中の近くを叩いて悪かったと告げた。そして洋服の入った紙袋を渡すと、着替えるように促し、トイレのドアを閉めた。この洋服は、が先ほどアルバートに頼み、会社へ戻って取ってきてもらったものだ。二年前のコレクションのサンプル。(くだん)のアルバートはといえば、最近第一子が生まれたこともあり、に洋服を預けると、そそくさと帰っていった。

 裕介が着替えている間、は、あらためて店員とその場の客たちに謝罪をした。店員は「でなかったら二度とロンドンに入れないようにしたさ」と言う。この店の店員らしいジョークだ。は残っている客と店員の男に、お詫びの酒を振る舞うと伝えて十ポンド札三枚を渡す。客席からワッと歓声が上がる。トイレでその声の大きさを耳にした裕介は、驚いて肩をびくっと震わせた。

 裕介は汚れた洋服を畳んで紙袋に入れ、口をゆすぎ、トイレから出る。そしての元に歩み寄ってゆく。は着替えた裕介を見て、手足が長いから似合うと褒めた。

 「あざます。……じゃないっショ! 何かしてくれたんスか?」

 そう聞いた裕介の後ろを、冷えたビールを複数持った店員が横切り、それぞれのテーブルに置いていく。一つ余ったものを片手に持った店員が、

 「坊やの落とし物(・・・・)に乾杯!」と叫び、全員が一斉に飲み始めた。は苦笑しながら裕介の左腕を押し、急ぐように店を出る。上半身だけ振り返った裕介が店員たちに大声で謝ると、客を含めた全員が笑って手を振った。



 店を出ると、小雨が降っていた。水滴をきらきらと輝かせて、一台のブラックキャブが停まっている。そこから降りてきた運転手はの名前を呼んで手を挙げると、トランクを開け、裕介のほうへ手を伸ばす。裕介はお礼を言いながら、輪行袋と手荷物を運転手に預ける。裕介を奥に座らせたが、トランクへ荷物を積み込んでいる運転手へ親しげに話す。

 このパブで飲んで終電がなくなったとき、は大抵この運転手のタクシーに乗っていた。いつしか直接の連絡先を交換していたほどだ。そのため、は廉のあとに彼に電話をかけて呼び出していた。電話に出た運転手は、「まだ終電があるのに、この時間に珍しいな。何かあったのか」と尋ねる。から裕介のことを知ると「若いね!」と豪快に笑った。そして、すぐに行って車の中で吐かれても困るから、と裕介の様子を聞き、時間を合わせて到着してくれたのだ。

 は、電話で知らせた通り、彼は回復はしているが、それでも可能な限りゆっくり走ってほしいと伝える。運転手は笑顔で頷き、車体は緩やかに帰路へと進みだした。

 「今日は色々すいませんした」

 車中で裕介が謝る。は、若い青年の誰しもが通る道で、気にしないようにと笑った。裕介の顔が少し火照っているのを見たが暑くないか聞くと、裕介は窓の外に目を向けて「あ……大丈夫ス」と言った。しかしは自身が暑がりであると語り、雨が入り込まないよう、ほんの少しだけ、窓を開けた。風がそっと吹き込んでくる。裕介は気持ちよさそうに目を細めた。は裕介に寝ているように伝えたが、「先輩の前で、さすがにそれはないス」と苦笑した。


 進みゆく車の中、は窓の外を見てばかりで、何も話さない。街灯の光がの横顔を照らして揺れている。外からの風が、の髪を小さくなびかせる。裕介はそれをぼうっと眺めながら、必死に眠気と戦うように手の甲をつねったり、「あれは何スか」と窓の外についてに聞いたりしていた。それに対するの返答は一言か二言で、会話を広げるようなことはしなかった。

「オレ、うるさいスか……」と酔っ払った顔で裕介が聞くと、話していると無理に起きようとするからだとが微笑んだ。裕介は押し黙る。それでも必死に起きていようと努めたが、その数分後にはウトウトと首を揺らし始め、十数分後には眠っていた。その間も、は窓の外を眺めていた。雨があがると、窓を少しだけ大きく開ける。寝ている裕介の眉がぴく、と動く。あどけない寝顔に目を細めると、は着ていたカーディガンをそっとかけた。



 裕介は名前を呼ばれて目を覚ました。寝ている間、車の窓に預けていたはずの頭部の位置が変わり、の肩を枕にして眠っていたことに気づいた裕介は、 「すいませんっショォ!」と言いながら勢いよく起き上がる。しばらくその体勢でいたせいか、が着ていたTシャツの襟ぐりが伸びて鎖骨が露わになっている。裕介が頬を赤くして慌てふためいている内に、は片手にカーディガンを持ったままドアを開け、玄関で待っていた廉と話し始める。裕介はその後を追って車から降りた。先に外へ出ていた運転手はトランクを開け、輪行袋と荷物を取り出すと、玄関の前まで運ぶ。廉に叱られながら、裕介はへ再度深くお辞儀をすると、荷物と共にトボトボと家へ入る。

 廉に手を振り、またブラックキャブに乗り込んだは、部屋の窓から覗いている裕介の姿に気づく。彼女が笑って手を振ると、裕介も手を挙げて会釈を返した。

 車の姿が消えるのを見送り、裕介はベッドに倒れ込んだ。

 今にも眠りそうな裕介の元へ廉がやって来て、ベッドの横に立つ。

 そして、明日にまた礼と謝罪を言うようにと念を押す。裕介は「あァ」と頷いたが、すぐにハッと目を見開くと、

 「兄貴、オレ……あの人の名前……分かんないショ」と唖然とした顔で言った。

 「はァ!?」

 廉は驚愕の声を上げた。しかし「そういやさん今日一日外部で打ち合わせだったな」と呟くと納得した表情をした。

 一応、形だけではあるが、は自己紹介を行なっていた。しかしその頃すでに、裕介は泥酔していたのだ。つまり、自己紹介など半ば意味のない状態だった。

 廉は裕介にの名前と広報担当だということを伝えると、電気を消した。裕介は廉にのことを聞きたがったが、今日は寝るようにとなだめる。

 「裕介、おまえ自転車以外でそんなに誰かに興味持ったのは久しぶりだろ。ゆっくり楽しめよ」

 まどろむ裕介の目には、優しく莞爾する廉の影が映っている。

 「さん……」

 裕介は噛みしめるようにの名前を呟きながら眠りに落ちた。



 運転手に礼を言って車を降りたは、ドアの鍵を開けて部屋の灯りをつけた。独身であるを迎えるのは、古い冷蔵庫の音だけだ。裕介の顔を拭いたハンカチをカバンから取り出すと、ボウルに入れ、水を浸し、洗剤で洗う。そして固く絞ってシンクの縁に干した。それでも少し臭いが鼻についたのか、消臭スプレーを部屋とカバンの中に撒く。そのままリビングを通過すると、浴室へと向かった。は大きくあくびをしながら服を脱ぎ、シャワーのコックを捻る。冷たい水が湯に変わったことを指先で確認すると、利き足からバスタブに入れてシャワーを浴び始めた。

 浴室から出てドライヤーで髪を乾かしていると、携帯電話のバイブレーションが鳴る。確認すると廉からのメールで、裕介についての謝罪と、明日は遅めの出社で構わないという連絡だった。了承したことと、裕介に対して大事を取るように伝えておいてほしいことを送る。

 三分後、廉から裕介のメールアドレスと電話番号が送られてきた。直接言えというメッセージだと判断したは、小さくため息をついたあと、メールを打ち始める。廉に連絡先を聞いたこと。二日酔いにはスプライトが効くこと。返事は必要ないため、しっかり休むこと。その三点を書くと送信して目を閉じた。




 目覚ましの音が鳴っている。

 「マジか……」

 初めて経験する二日酔いの頭痛からか、裕介は目を閉じて眉を(しか)めながら起き上がる。充電器に挿していた携帯電話は、着信があったことを知らせる明かりをチカチカと点滅させていた。東堂から特に内容のないメールが数通、アルバートから謝罪の連絡が一通、そして見知らぬアドレスから一通。その文中にの名前を見つけた裕介は思わず声を上げる。送信された時刻は、昨晩の十一時だった。返事はいらないと書いてあるが、返信ボタンを押す。連絡不精の裕介にとって、メールの文章を考えるのは時間がかかるようだ。何度か迷って文字を打ち込んだり消したりしている間に、出勤時間が迫っていた。

 裕介は画面の右上に表示されている時刻を睨みつけて舌打ちをしたのち、「もう直接言えばいいショ」と諦めて携帯をカバンにしまうと、タオルと着替えをつかんで浴室へ向かった。

 熱い湯を浴びて少しは頭痛が和らいだようだったが、それでも首を回したり顳顬(こめかみ)をもんだりしながら時折ため息をついて自転車に跨った。しかし、この様子ではとても漕げそうにないと判断したのか、すぐに降りて最寄駅へと歩いて向かう。廉は外出先で打ち合わせのため、今日は別行動だ。


 廉のデザイン事務所は、道の角に建つ集合ビルの二階にある。建物の脇には自販機が設置してあり、飲み物や軽食が買えた。裕介はその中にあるものを見つける。が勧めた、スプライトだ。カバンから硬貨を数枚取ると、一本購入した。いつもより十分ほど早く到着していたことを腕時計で確認する。裕介の想定よりも、電車が早かったのだ。蓋を開けて入り口の前で飲み始める。習慣として使っているストローがないせいか、少し飲みにくそうにしながら、レモンの香りを口内に漂わせる。そして空いている右手で携帯を取り出すと、からのメールを改めて読み、返信ボタンを押した。それでも気の利いた返事が思い浮かばなかったのか、親指は何度も文字を打っては、消去ボタンを押すことを繰り返す。

 数分後、が出勤してきた。廉には遅く来て良いと言われていたが、今日の午後一に必要な書類をまとめていなかったことを思い出した彼女は、通常通りの時刻に到着したのだ。社員証を取り出して入館する準備をしながら歩いていると、曲がり角のすぐ先にいた裕介とぶつかりそうになり、足を止める。

 「あッ」

 予想していなかった裕介はスプライトを落としそうになるが、どうにか左手でつかむ。そしてそのままへ朝の挨拶と昨晩の礼をした。も挨拶を返し、裕介の左手に持っているものを指差すと、効果はどうかと聞く。裕介は「すげー効きます」と答える。それでも今日は体調に気を遣いながら作業するように、とは裕介を思いやった。

 そのまま階段を登り、は、社内へ向かおうとする。その後ろを、裕介が着いていく。すると振り返ったが、まだ開始時刻まで時間があるから、ゆっくりしていても良い、と告げた。裕介はそれを、言葉通り受け取る。彼女が皮肉や嫌味でそういったことを言う性質ではないと、昨日のタクシー内で知っていたからだ。頷きながら「うす」と言い、階段の踊り場で立ち止まると、を見送りながら、ふたたびスプライトの蓋を開け、口をつけた。

 朝陽に照らされているの横顔は、ネオンの光に揺られていたときとは雰囲気が違う。昨晩はも何杯か酒を飲んでいた上に仕事あがりだったため、少し疲れがあった。それがかえって、周囲に扇情的な印象を与えていたのだ。今日は爽やかな夏の日差しが、彼女を健康的に見せる。裕介は階段を上がっていくの姿を目で追いながら、喉を鳴らしてスプライトを飲み込む。

 ふいに大きな声で名前を呼ばれた裕介は、驚いて振り向く。アルバートだ。彼は階段を駆け上がってくると、裕介の左隣に並ぶ。そして、裕介が先ほどまで見つめていた視線の先がであることに気づくと、ニタァ、と意味深な笑い方をした。アルバートは裕介の右耳にそっと囁く。

 「十二歳差の恋なんて、なかなかロマンチックじゃないか」

 裕介はこのとき、初めての年齢を知った。




イメージBGM:堀込泰行「WHAT A BEAUTIFUL NIGHT」




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