最終話




 今日の風は、やわらかい。

 時期は九月。裕介が初めての家へ訪れた頃から一年が過ぎていた。ロンドンの住宅街では、金木犀の甘い香りが、ふんわりと空を漂っている。その匂いは強いのに、不思議とどこにあるかは分からない。太陽が沈んだ今、小さな橙の花弁を探し出すのは一層困難になった。その道を進みゆく一台の車には一組のカップルが乗っている。裕介とだ。

 ガレージへゆっくりと入ってきた軽自動車はスピードを落とし、そのまま停車する。裕介は先に降り、後部座席から二つのビニール袋を取り出して屋内へ運んだ。袋の中身は酒と惣菜。土曜日の今夜はの家で、ふたりきりの晩酌だ。


 夕方、近くのスーパーで待ち合わせたふたりは、カートにカゴを乗せて買い物をした。フライドポテト、チリチーズナチョス、バッファローウィング。ジャンクフードばかりのラインナップだ。は次々と買い物カゴへ放り込んだのち、仕上げとばかりに缶ビールケースをひとつとトニックウォーター、ソーダのペットボトルを入れた。最後には小さなバケツほどの大きさをしたバニラアイスをカゴへ落とし、迷わずレジへと向かう。裕介はというと、抵抗があるのか、カゴの中とを交互に見ながら、そっと心ばかりのシーザーサラダを入れようとした。はそれを止める。今日はとことんまで悪い大人になろうじゃないか。そう悪魔的な笑みを浮かべた。呆気に取られた裕介は数秒ほど同じ姿でいたが、すぐにクハ、と笑った。サラダを元の場所へと戻しに行きながら、こんなに(たくま)しい女だったけか、と呟く口ぶりは嬉しそうだ。

 彼女が逞しかったか否か。

 という女は、元来タフにできている。そうでなければ、異国の地でひとり、上手くやれるはずがないのだ。それを少し弱気に変えたのは裕介であり、また元の強気へと戻したのも彼だ。先日のストーカー事件から一転、この恋に覚悟を決めたは、雄々しく旗を振って先頭を征く王のようだ。女でありながら、猛々しさすらある。裕介はそれについてゆく。

 心は少し斜め後ろを、身体は彼女の真横を。

 誰かの後ろへ、肯定的な意思を持ってついてゆくのは、裕介にとって久々の感覚だった。かつて後輩に対し、ついてこいと言ったこともあるし、先輩についてこいと言われ、断りきれずについていったこともある。ただ、好ましい感情で誰かについていくのはしばらくぶりだった。悪くない、と呟きながらの元へ戻る彼の足取りは軽い。

 レジへ戻ると会計は済んでおり、は手を振って裕介に笑顔を向けた。その表情を見た裕介は、顔を緩めて小走りに近づいてゆく。雄々しいばかりでなく、ときに(たお)やか。彼女の魅力に溺れている。  重いほうの袋を持つと、ふたりで並んで駐車場へと向かった。小さな車内に、ジャンクフードの香ばしい匂いが充満する。窓を少し開けると、秋の空気が入ってきた。そうして部屋に戻ってきたふたりは、さっそくテーブルに食事を並べ始める。

 フォークを取りにキッチンへ来たは、そのまま桃のリキュールをレモンジュースとソーダで割り、マドラーでかき混ぜたものを二杯作る。そして両手でグラスを、中指と薬指でフォークを挟むようにして持ち、テーブルへと戻ってゆく。それをそっとテーブルへ置き、ひとつを裕介へ差し出した。ふたりは、

 「乾杯!」

 とグラスを打ち鳴らす。

 さっぱりとしたピーチフィズは、食前酒のようなものだ。グラスの高さは低く、量も少ない。すぐに飲みきったは缶ビールを開けた。ビールはバッファローウィングによく合うのだ。美味しそうに飲むその横顔を、裕介がジッと眺めていたため、缶ビールを一口だけ与えた。しかし、首を傾げられた。この苦味は、どうやら彼にはまだ、早いらしい。



 ほぼ空になった皿の前には、ほんのりと顔を赤らめた裕介がいる。その隣には、ジントニックを飲む。裕介はカフェインと同様にアルコールも効きやすいのか、少し姿勢を崩すと、の肩へ頭を預けるようにしてもたれかかった。

 「あのときも、こうしてたんだよなァ。タクシーで……オレは寝ちまってたけど……クハ」

 甘えるような裕介の額に、はそっと口づけた。バッファローウィングのソースが唇型についてしまう。色気のないキスマークに笑うと、親指でそれを(ぬぐ)った。なぜ笑われたのか状況を理解していない裕介はキョトンとした顔をしている。なんでもないと言いながら、ナプキンで口と親指についたソースを拭き取り、裕介の髪をそっと撫でた。

 「で……二回目に同じパブに行ったとき、昔付き合ってたヤツが飲めないのに飲むヤツだったって聞いて」

 裕介は急に起き上がるとと向かい合う。その勢いに驚いたの双眸は大きく見開かれている。

 「あー、いや、その……」

 余勢を駆ろうとしていた裕介だったが、ここにきて酒以外の力が顔を紅潮させる。

 「の…あー、いや……何でもないショ」

 歯切れの悪い恋人に、は助太刀を入れる。聞きたいのは元恋人のことかと指摘すると、裕介の顔は分かりやすいほど赤くなった。図星のようだ。彼女は今日の風のようにふわりと笑うと、これまでの恋の話をしようと裕介に提案した。お互いが出会うまでにした恋を、辿ってみるのだ。

 の初恋は幼稚園のころ。今思えば、おままごとのようなものだったが、たしかに好きだった。

 裕介は中学一年生のころ、同じ学校の三年生に。当時読み始めたグラビア雑誌に載っていたアイドルに少し似ていたのと、委員会で同じになって優しくしてもらったから。けれど何も言えずにいたら、いつの間にか三年の先輩と付き合っていて初恋は終わった。そこから、やっぱりロードだという意思が強くなり、さらに打ち込むようになる。

 二度目の恋。が初めて誰かと付き合ったのは、高校生のころだった。マメにメールをくれる相手に対し、受験で忙しくなり返信がおろそかになった結果、付き合っている意味がない、本当に好かれているか分からない、と相手から一方的に振られてしまった。

 裕介はというと、高校のときは練習漬けでそういう暇がなかった。ただ家庭教師とそういう関係になりかけたことがある。恋愛というよりは、少し爛れたもの。と出逢う一年半前の話。そこから先の恋は、に一直線だった。

 「ここから先は知ってるショ。オレの話はここまでだ」

 そう裕介が切り上げると、はかつて裕介に話したことのある、『飲めないのに飲む元恋人』のことを語り始めた。イギリスのパブで働いていた、イタリア人とイギリス人のハーフ。彼の持ち前の気さくさと、(レン)がそのパブの常連だったこともあり、仲良くなるのに時間はかからなかった。告白は向こうから。の誕生日に薔薇とラブレター、彼女をイメージしたカクテルとともに好意を告げられた。

 げ。と言ったような表情を見せる裕介。

 男の気障なところが不快だったこともあるだろう。しかし、一番の理由は、自分の告白と比較したとき、あまりにも相手が格上だったからだ。裕介は、半ば強引にの家へ押しかけ、思わずキスし、ほぼ言い逃げしたも同然だった。

 気を落としている裕介の様子を見たは、そっと裕介の手を取って言う。本気だから用意するのも、本気だから必死になってしまうのも、自分にとっては嬉しいことだった。だって好きな人のすることだから。

 裕介は、どうせなら自分だけを賞賛してほしいものだと苦笑する。かつての恋人を悪く言わないのも彼女の良さだと伝えながら。そして唾をひと飲みすると、

 「で……なんで別れたの?」

 そう尋ねた。あくまで平静を装っているが、その鼓動は早い。兄にも「いいヤツ」と言われている男が、なぜと離れてしまったのか。

 「あ、いや、言いたくないならいいっショ。別にその、すげー知りたいつうワケじゃないし、わざわざ聞くようなモンでもねェからな」

 表情とまるで一致していない言葉を放つ裕介。それを慈しむような瞳で見たは、理由を説明する。別れたのは今から二年半前。このときも、相手から振られた。相手が優しいことが当たり前になってしまっていて、仕事にばかり目を向けていた。そうしたら、何のために一緒にいるのか分からないと、最初の恋人と別れたときと同じ理由で離れていってしまった。相手に甘え過ぎていたのだ。メールやラブレターなど、形に残る愛を注いでくれていたのに、自身は仕事に夢中で、何も返せなかった。すると相手は大事にされていないと失望してしまっていた。気づいた頃には手遅れで、彼の心は、既に決まっていた。

 これが三度目の正直になればいい。

 そう言って悲しそうに俯く彼女を抱き寄せ、その額にキスをした。すると裕介は、が先ほど笑っていた理由に気づく。クハ、と声をあげて、テーブルからナプキンを取った。は額をナプキンで拭かれながら、自分の額についた跡を想像し、声をあげて笑う。ふたりの笑い声が重なり合い、リビングを駆け抜ける。

 「んな理由だったら簡単ショ。が前に行き過ぎてんなら、オレが追いつきゃいい。追いかけて追いついて……そして、隣でまた歩き始めればいい。今まで通りショ、クハハ」

 ニヒルに、それでいて屈託なく笑う裕介の唇に思わず口づけると、予想していなかったのか「んぅ!?」と焦る声の振動がの口元に伝わる。その震えを感じながら、男性としては細身の、モデルとしては最適な背中に腕を回す。裕介は両腕の下にある小さな背中を優しく叩き、角度を変えて口づけた。ふたりは唇を離し、ソースの味がする、とまた笑いあった。互いの背中に手を回したまま、見つめ合い、裕介は話し始める。

 「オレは、」

 丁寧に言葉を選び、紡いでゆく。

 「ラブレターなんて書けやしねェ。なんでもないような日にメールを送るようなこともしねェ。何か……誕生日とかだったりしてもだ。不精だからな。だから今までの男とは違うショ。形に残るモンは残せねェ。照れ臭いことは性に合わねェのさ。そういうのって……大事にされてないって思うかァ?」

 は即答する。まったくそう思わない。と、首を振った。

 大人になるにつれ、文章ではいくらでも、何とでも言えることを知ってしまった。その点、裕介は、すべてを行動でぶつけてくる。そこに嘘はなく、あったとしても下手糞で、すぐに分かる。そう笑った。嘘が下手だと言われた裕介は、心外だ、とでも言うような表情をする。その顔を見て、はさらに目尻を下げた。

 大事な言葉なら少なくていい。そのほうが、ひとつひとつを大切にできるから。

 「それ、前にも言ってたっショ」

 裕介の頭に、海辺で貝殻を拾うの姿が浮かぶ。拾っては見せ、手放した。いつか、あの貝殻のように、己の言葉も放り投げられ、波に攫われて消えてしまうのかもしれない。

 いつか。

 その未来が存在するのかどうかは、神様さえ知らない。

 ふたりならこの先も大丈夫だということも、この関係に問題はないということも、裕介には断言できない。続いてゆくのか、どこかで終わりを告げるのか。もちろん、も知らない。他者に永遠だと断言されたとして、当事者のふたりは納得しないだろう。この恋の答えは、きっと誰にも分からない。

 それでもこの瞬間、お互いを大切に想い、共にいることは確かだ。揺るがない事実がひとつ、ふたりの間にある。好きだ、という感情。それを知っているかのような自信ある言葉つきで、裕介は目を細める。

 「まァ、オレがそういう男って知ってて選んだんだろ、は」

 そう言いながらも、を見つめる裕介の眼差しが揺らいでいる。彼をあまり知らない人物であれば分からないほどの震えだ。しかし、は知っている。この男は、深く付き合えば付き合うほどわかりやすい。感情を表に出さないよう気を遣っているが、よく見れば動揺していることが痛いほど分かる。余裕ぶった言葉を口にしているときほど、本心は弱気だ。相思相愛だけでは物足りないのか、来たる“いつか”に脅えているのか。不安の闇が瞳の奥にある。そんな裕介へ微笑を投げると、はその通りだと答える。何より最初に送ったメールへ、直にしか返答しなかったのが裕介という人物なのだ。それを指摘されると、決まり悪そうに「あー……」と頬を掻く。その手を取ると、彼女はテーブルの隅に置いてあったペン立てから一本のマジックを取り出した。色は、赤。そのまま、裕介の小指に、赤いマジックでハートを描いてゆく。それでも不安なら、おまじないをかけてあげる。ニッコリと笑った彼女は、そう告げた。これは永遠に離れないおまじない。どこまでも曖昧な響きだ。永遠。おまじない。裕介は閉口する。小指のハートを見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。

 「永遠なんてのは」

 小指の爪に付着した赤いインクを、親指の爪でなぞる。

 「こういう一瞬が続いてくことを言うんじゃないかって思う」

 乾いていないインクが、裕介の親指を汚す。

 「この瞬間も、永遠が作られてる最中なんだ」

 (いびつ)になったハートを見つめてシニカルに笑い、へと向き直った。

 「クハ、クサいこと言わせんなっショ」

 照れ隠しのように缶ビールを開けてごくごくと飲むと、やっぱ苦いっショ、これ、とテーブルに置いた。半分あまったそれを、が受け取って空にする。やはり美味そうな顔をして、飲み口から唇を離すと、恍惚のため息をついた。ふたりでひとつくらいが、ちょうどいい。裕介は呆れたように笑って、の頭に手を置く。そのまま後頭部に力をかけて顎を上げさせると、キスをした。今度はビールの味がする、そう眉を下げて笑う。そのまま何度も口づけを繰り返す。上気しているのはアルコールのせいだけではない。

 「……いいか」

 裕介はの瞳を覗き込む。それに対し、彼女は蠱惑的な笑みを浮かべ、『オレに『ダメだ』って言ったことない』と前に言っていたじゃないかと指摘した。瞬間、裕介は身体を硬くする。そして、それは昔の話っショ、と目を伏せた。

 強い意志を持った言葉でも、何気なく放った言葉でも、彼らは互いに傷つけ合った。

 ───ダメだと思ったらすぐに“離れていい”。

 ───“このくらい”でいちいち引っかかってたらしょうがない。

 それでも恋しく想うから、ふたつをひとつにしようとするのだ。

 は裕介の首に腕を回し、目を合わせるように示唆する。柔和な笑顔を作ると、これから何度でも裕介を肯定すると約束した。そして指を滑らせ、彼女の腰に置かれた裕介の手を取り、その小指へと自分の小指を絡ませる。指切りげんまん。子供のような行動だ。しかし裕介には充分だった。切なく笑いながら、小指ごとの手を掴むと、テーブルから立ち上がらせる。そのまま寝室へ誘導するように、歩を進めながら、口づけを交わした。深く、さらに深く。

 ダイニングからの光しか入らない寝室は薄暗い。この部屋へ、裕介は幾度となく訪れた。迷わずにベッドへを押し倒し、ふたりして横たわる。暗がりの中、光る二組の双眸が視線を合わせた。

 その瞳に過去も未来もない。肌を重ねて想うのは、今この瞬間のことばかりだ。の目には裕介しか映らず、裕介もまた、彼女しか見えていない。きっとこれからも、同じ景色を見続け、記憶と記録を重ねてゆくのだろう。

 
 

 午前五時。ふと目を覚ましたは、目の前の裕介があどけない表情で眠っているのを眺める。規則正しく、静かな寝息が寝室に響く。布団の下で、胸が上下している。長い下まつげに付着した目やにを擦り取ってやると、身じろぎをして「まだ朝じゃねェっショ」と布団を頭まで上げて被ってしまった。

 外はほのかに明るいが、まだ月が昇っている。夜と朝の境界は曖昧だ。夜はいつから朝になるのだろう。時刻か、日昇か、おはようと言う相手がいることか。どことなく不鮮明。

 ほんの少し、布団からはみ出ている玉虫色の髪をそっと撫でる。

 恋しい。

 愛しい。

 そんな感情が、彼女の胸を巡る。

 恋と愛の境界線は、どこに存在するのだろうか。恋は、いつ愛に変わるのか。

 永遠を誓えたら。

 不変だと断言できたら。

 もしそうだとするなら、と裕介は、まだ恋をしている段階だ。

 不確かで不鮮明で穏やか。そんな、やわらかな感情。

 それを互いに注ぎあっている。

 その時間を重ねて、永遠を紡いでゆく。

 は布団へ潜り込むと、もう一度目を閉じた。

 同じベッドで眠るふたりは、数時間後、ふたたび目を覚ますだろう。

 相手も起きていることに気づくと、どちらからともなく、おはようを告げるのだ。

 そうしてロンドンの朝、今日もふたりで恋を始める。



「やわらかな感情」 完




イメージエンディング曲:TENDRE「DOCUMENT」





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