第2話




 「さん。コレ、ありがとな」

 朝。授業が始まる前、裕介はにノートを手渡した。は微笑んで受け取ったが、その側面に取り付けていたはずのダブルクリップがないのを見て顔を真っ青にした。はずれないように普通のクリップではなくダブルクリップにしたのに、何故、と瞬きすらせず硬直する。裕介は百面相する彼女に思わず吹き出してしまった。想い人が珍しく素直に笑っている。がその顔に見惚れていると、「ん? 何だい?」と首を傾げられた。は顔を紅くする。青くなったり紅くなったりと忙しない様子に、また笑いそうになった裕介は口元を手で抑えてこらえ、ニヤケた顔をしながらノートを指差す。の肩が大きく震え上がる。

 「さんの目にオレはこう写ってんだな」

 は決まり悪そうに髪を耳にかけながら目を逸らす。言葉を探すように視線を彷徨わせるも、この場にふさわしいものが思いつかないのか、小さく開いた口からは何も発せられない。

 「絵を描くのが好きなのかい? さんは」

 イエスかノーで答えられる問いに、は首を縦に振って回答する。

 そして裕介に対し、勝手に描いたことを謝った。その声が小さく、騒がしい朝の教室でよく聞き取れなかった裕介の顔が、少し屈むようにしての口元へ近づく。

 「謝る必要はない……ショ。よく描けてる。けど、ピエール先生が悲しむぜ」

 クク、と裕介が笑う。は目を泳がせる。

 「どうせ描くなら現代文のときにしとけ」

 現代文の教師である児玉は、裕介が入学してから現在まで何度となく「よたよた歩くな」「まっすぐ立て」「ノートは横にして書け」と指導してきた。その様子はも何度か目にしている。クスクスと笑いながら頷くと、チャイムが鳴った。偶然にも、一限目は現代文だった。お互い前後で表情は見えないが、笑っていると分かった。

 

 のノートに、また一人、裕介が増える。

 ノートの種類は英語ではなく、現代文。

 いつもとは異なる状況で裕介を描く。英語の時間に描いていたのは、見つかってもあまり怒られなさそうだと考えていたからだ。そしてもう一つ。ピエールが授業中にロードバイクに例えた話をすると、裕介が嬉しそうな雰囲気を醸し出す。はそれが好きだった。太陽に照らされた玉虫色の髪の毛が、一層輝くような空気感。そしてピエールの授業は、どの曜日も午後に入っていた。陽の当たり方が美しい時間だ。

 午前の今は、光の入り方が午後とは異なる。西側に窓が設けられた教室には、あまり光が入らない。いつも玉虫色に輝いている裕介の髪も、少しだけくすんだような色を見せている。まるで裕介の心情を表すかのようだ。児玉に良い思い出がないからだろう。ピエールの授業では光り輝き、児玉の授業では曇る。その違いを描く楽しさもあった。

 しかし、いつも使っている文具では暗い影の部分が表現できず、幾度となく塗り重ねて色を濃くしてゆく。その間、集中していたは隣に迫る児玉の影に気づくことができなかった。

 「物好きだな、お前。巻島か? それ」

 は肩を震わせて児玉を見上げる。どう言い訳をしようか考えるうちにノートを取り上げられる。児玉はそのページを指差しながら、

 「こういうことしてっと受験失敗するからな」

 と、他の生徒に見せびらかせる。いたたまれず、は俯いてスカートの上で拳を握る。笑う者は誰もおらず、ただ無関心な沈黙が教室を埋める。それがかえって居心地を悪くさせた。しんと静まり返った教室の中、児玉は投げつけるようにして机の上にノートを返した。そこには、描きかけの背中が描かれている。

 の目の前にいる完成された背中は、少し身じろぎをすると児玉へ顔を向ける。

 「あー、先生」

 細長い指が後ろの席を示す。

 「あれ、オレが描けって言ったんスよ。気ィ弱そうな美術部員だから」

 「何言ってるんだ巻島、は英語部で全国のスピーチ大会連勝してるんだぞ。適当なこと言うな」

 「え!? そぉなのォ!?」

 裕介が思わずのほうへ振り向くと、彼女は気まずそうな笑顔を浮かべて二度も頷いた。そう、がピエールの授業で裕介を描いていたのは、さらにもう一つ理由がある。特に聞かなくても授業についていける自信があったからだ。また、ピエールは英語部のサポートもしている。メインは自転車競技部だが、スピーチ大会前に内容の確認をしたりすることがある。つまりピエールとは、それなりに近しい間柄なのだ。

 がスピーチ大会の優勝者であることは、校内の一定層が知っていた。スピーチ大会終了後しばらくは横断幕が垂れ下がっていたからだ。裕介と児玉のやり取りを聞いていた他の生徒たちは「知らなかったのか」とでも言いたげな表情をしている。

 「二人とも、英語ができるからって現文サボっていいと思うなよ。文系で受験するなら現代文だって必要なんだからな」

 児玉は丸めた教科書で裕介の頭を軽く叩くと、黒板のほうへ踵を返した。裕介は小さく舌打ちをして、ペンを回しながら授業を聴き始める。はというと、裕介のイラストの横に「かばってくれた!!うれしい!!」とピンク色のペンで描き足した。意外と肝の据わった女らしい。


 チャイムが鳴り、児玉はふたりを睨みつけるようにしながら教室を去ってゆく。は裕介の背中をそっとペンでつついた。くすぐったかったのか、裕介の体が下から上へと、電流が駆けるように震え上がる。

 「それやめろショ、さん」

 頬を染めて恥ずかしそうに振り返った裕介は「で、なんなの」と聞く。がさきほどのことにお礼を言う。

 「いや、オレが現文で描けっつったんショ。それに……悪ィな、英語部って知らなかったんだ。みんな知ってたみたいだけどヨ」

 頭を掻きながら、裕介は苦笑する。

 「、災難だったねー。てか巻島くんイイとこあんじゃん!」

 そこへ、ふたりに駆け寄ってきたのはの友人だ。いつも昼休みに一緒にいる。以前、裕介の席に座ってとふたりで話していたのは彼女だ。

 ちなみに彼女は、児玉が怒り始めたときに熟睡していた。起きたときにはどうやら裕介が何かしたらしい、という状況のみ把握できた。今しがた隣の席のクラスメイトに状況を聞き、詳細を知って、たちに話しかけてきたところだ。

 「がスピーチコンテスト優勝してたの知らなかったのはびっくりしたけど。横断幕見なかった?」

 「……? あ!! 思い出したっショ、なんかデカく名前書かれてたっショ」

 「それそれ」

 「つかさん、大人しそうなのにスピーチ大会とか出るんだな」

 裕介がを見ると、面映ゆい表情をして頷いた。

 「そういえばさ、、それ本人にバレてたの?」

 がノートに裕介を描いていることを、彼女は知っていた。ふたりは高校の入学式からずっと帰り道を共にしている。休日に約束して遊ぶこともある。年に数回は家にも泊まる。彼女はのスピーチコンテストにも足を運んだし、も彼女が出場するバレーボールの試合をよく観に行っている。それほどに仲が良いのだ。

 「ピエールさんの時間しか描いてなかったけど」

 「オレが……描くなら現代文のときにしろって言ったのさ」

 「あー児玉ね。分かる分かる。あいつ私も嫌い。さっきだってのこと晒し者にしてたんでしょ。ごめん、寝てたからよく知らないんだけど。巻島くんがかばってくれたからちょっといい話になったって聞いた」

 「べつに、かばってない……」

 「いや、かばってないっていうのは無理あるんじゃないの? よくわかんないけど、みんなシーンとしてシカトしてたんでしょ。だったら巻島くんもそうできたはずじゃん。……ま、かばってないって格好つけたいならそれでいいけど。で? いつバレたの? あ、そっか昨日ノート貸してたっけ。ん? でもダブルクリップで留めて渡してたよね。外して中身見たの?」

 流れる滝のように言葉を放つ彼女に口を挟む余裕はなかったが、ここで一度ダムが用意された。裕介は、自身に投げかけられた質問に少し口ごもりながらも答える。

 「つい、な……」

 そしてのほうへ一瞬目を向けると、申し訳なさそうに目を逸らした。

 「よかったじゃん! それで仲良くなれたんなら」

 カラッとした夏の陽射しのように笑う彼女に、と裕介は揃って静かに笑う。

 「えー、じゃあと仲良くなった巻島くんにお願いがあるんですが」

 「え……何だい?」

 「田所くん……紹介してほしいです!」

 「あァ。……。……って田所っち!? 金城じゃなくて?」

 「え? なんで? 田所くんもかっこいいじゃん」

 「あ、おぉ……センスは人それぞれだしな……」

 「で、みんなで遊びに行こ! 今週の日曜!」

 タイミングを合わせたように、と裕介は目を見合わせる。そのまま彼女の方へ視線を戻す動きまでシンクロしている。それを見た彼女が笑う声に輪唱するように、チャイムが鳴り響いた。





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