第1話




 玉虫色の世界が、の眼前に広がっていた。

 月に一度の席替えをした結果、彼女の前に裕介が来た。窓際の列の、後ろから二番目と三番目。そこに裕介とが座ることになったのだ。単なるくじ引きの結果で、他意は一切ない。生徒たちが一斉にガタガタと音を立てながら荷物を移動させる中、前の席からそう遠くなかった二人はすでに着席していた。

 外の天気は晴れており、西日が教室へと射し込んでいる。裕介の髪が、光により如何様(いかよう)にも表現し難い色となっている。ところどころ赤く染め上げている部分が、さらにそれを映えさせる。猫背ぎみの身体に沿って流れる長髪は、裕介が机に物を入れるたびに揺れ、反射する。水面のようだ。

 裕介もも社交辞令が上手な部類ではない。周りが「隣で嬉しい」「あんまり話したことないね」「よろしく」と前後左右のクラスメイトへ言葉をかけている中、前後であるはずの二人は何も話さなかった。両者とも鞄の中身を机に入れたり、頬杖をついて外を眺めたり、携帯電話のメールを確認するふりをしたりなどして過ごした。これが席替えの初日だ。


 二日目の世界史の時間、黒板に並ぶ数字をノートに書き写していると、裕介が右に身体を倒す。彼の前の生徒が障害となって板書が見えず、覗き込むような体勢になったのだ。つられても右に身体を倒す。細身とはいえ広い背中で、視界が遮られてしまったからだ。

 書き写している間にも授業は進み、教師は容赦なく内容を消してゆく。まだ書き終わっていなかったは、小さく「あっ」と声を上げた。誰も気づかないくらいの小さな声だったが、前にいる裕介の肩がびくっと震えた。

 授業の終了を告げるチャイムが鳴り、昼休みで生徒たちは一斉に席から離れてゆく。

 「あの── 、さん、だよね?」

 裕介が振り返り、に話しかけてくる。まさか話しかけられ、かつ名前を覚えられていたとは思っていなかったは、驚きながらも頷く。

 「オレさっき黒板写すのジャマしたシ……だろ?」

 そう言うと水色のノートをへと差し出した。

 「その、よければ写す……かい?」

 は受け取り、感謝を告げる。書き移せなかったのはたった二行だ。今書き写して返す、と言うと、裕介は「気にしなくていいさ」とぎこちない笑顔で答え、パンと牛乳の入った袋を片手に教室を後にした。


 「おうどうした巻島、顔が死んでんぞ」

 「田所っち……」

 裕介は田所と金城と昼食を取っている場所へ辿り着くと、田所の右隣へと腰掛ける。

 「オレやっぱり自然な会話すんのムリっショ……特に女子」

 「何かあったのか?」

 口いっぱいに頬張る田所の左隣にいた金城が聞く。

 裕介からの話を聞いた二人は、高校一年生の頃を懐かしむように笑った。親しくない相手に対する裕介の口調を田所が真似ると「うるさいショ! そんなんじゃね───よ」と怒るが、第三者から見ると似ているように映るだろう。三年間ずっと一緒にいるのだ。お互いのことはよく知っている。

 賑やかな昼休みを過ごした裕介が帰ってくると、はすでに席に座っていた。裕介の席にはと楽しげに話す女生徒が座っている。裕介に気づいた彼女は、スッと立ち上がっての机の近くに立つ。かえって座りづらく感じながらも、裕介は椅子を引いて掛けた。そして机から次の授業の教科書を取り出していると、後ろから肩を叩かれる。振り向くと、が礼を告げてノートを渡してきた。裕介は短く「ああ」とだけ返すとノートを受け取り、鞄にしまって前を向いた。同じタイミングで次の授業の教師が扉を開けて教室へ入り、二人の会話はそこで終了した。


 それ以来とくに話をすることもなく、裕介とは「前の席に座っている人」「後ろの席に座っている人」程度の関係のまま続いていた。プリントを渡すくらいはするが、それ以外は何もない。裕介が姿勢に気をつけるようになった上、前後でペアを組ませる教師がいなかったからだ。


 いつも通り授業を受けていると、裕介の後ろから、ガシャン、と音がする。が自身の肘でペンケースを落としてしまったのだ。口が閉じられていなかったそれは、大量の筆記具を吐き出す。黒、赤、青、緑、黄、桃──色とりどりだ。女子高生らしいといえばらしいが、色が多すぎるようにも思えるそれをそそくさと拾い上げる。教師に「大丈夫かー」と聞かれたは、返事をする。その顔は紅く染まっている。裕介も前に転がってきたいくつかを集め、の机に置いた。それが二度目の接触だった。

 三度目の接触。きっかけは裕介の居眠りだった。大会前ということもあり、通常よりも長く厳しい練習の影響で疲れていた裕介は、一限目で船を漕ぎ始めた。二限目には荒波に乗るような傾きを見せ、三限目の英語の授業ではついに諦めて突っ伏して寝ていた。めずらしい姿だった。裕介は、奇抜な髪の色とは裏腹に、真面目に授業を受けていることが多かったからだ。

 「ミス、後でミスター巻島にノートを見せてあげてくだサイ」

 は、なぜ自分なのだろうと思いながらもピエールに返事をする。

 丸一時間近く眠っていた裕介だったが、チャイムの音で身体を震わせて飛び起きる。ピエールは裕介に向かってウィンクをすると、「ミスにお礼を言うのデスよ」と言い残して去っていった。裕介はのほうへ振り向く。は開いたノートを渡す。一時間分のノートだ。すぐには書き写せない。裕介は一晩だけ貸してほしいと頼む。はダブルクリップで前半のページをまとめて挟むと、落書きが多いため前のページは開かないようにと念を押した。



 「見るなって言われたら……見るっショ!!」

 自宅に持ち帰ったのノートを写し終わった後、お楽しみと言わんばかりに裕介はクリップを外した。言うなと言われると言いたくなり、見るなと言われると見たくなる。捻くれ屋で、スリルを味わうのが好きな男なのだ。は数度しか話したことがないため、この本性を知らない。

 裕介が意気揚々と一ページ目から開くと、途中までは何の変哲もない、ただの英語のノートだった。裕介は退屈そうにページをめくる。四月のノートは普通の内容だった。字に関しても、別段綺麗でも汚くもなく、いたって普通のノートだ。隠すようなことなど何もないかのように見えた。

 しかし、五月頃の内容になるとページの隅に誰かの横顔が描かれ始める。誰か、ではない。裕介そのものだった。斜め後ろからの角度だ。前の席ならこのように見えていたかもしれない。髪の部分のみ、緑色で塗られている。六月に入るとその色数は増え、光が当たっているところは黄色と桃色、暗いところには深緑と臙脂を使用するようになっていた。週に三回ある英語の授業で、毎回、裕介が一人ずつ増加してゆく。六月になってからは横顔ではなく、背中になっている。それでも丁寧に色が塗られている。おとといのノートに描かれたものと実際の裕介の髪の色を比較すると、まったく同じように見える。熱心に様々な工夫を重ねたのだろう。今年が受験だというのに、勉強よりも重きを注いでいるようだ。

 さらに、そのイラストの横には裕介の情報が書かれている。「トム・フォードのデオドラント…いい匂い」「今日は根元が浅茶色。地毛の色が薄めっぽい。かっこいい!」「今日のお昼はあんぱんと牛乳」「めずらしく束ねてる 今日ちょっと暑い」「ノート貸してもらった!後ろの席の役得」……。

 当事者として気味の悪さを覚えても致し方のないの行動だったが、変わり者の裕介に衝撃を与えるには丁度よいくらいだった。

 「やべーモン見つけちまったなァ」

 裕介は嬉しそうに口角を上げながら、再びパラパラと眺めた後、クリップを元に戻さず鞄へ入れた。





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