湯気
何が彼の間違いであったかといえば、この女と巡り会ってしまったことだろう。
ふたりが遭遇した季節は冬。雪のちらつく闇夜、ひとつの電灯の下、視線がかち合った。
「寒くないのか、ぼうず」
いきなり話しかけてきた女に面食らった少年は、数秒の間、白い息だけを吐いた。しかし返す言葉が思いつかなかったのか、気まずそうに目を逸らすと、歪んだ弧を口元に描いて頷く。女はその様子を鼻で笑ったのち、
「どっちだよ」
と言うと、黒いツイードコートのポケットから小さなカイロを取り出した。そのまま、少年の元へ投げて寄越す。断る間も無く、反射的に受け取ってしまった。湯気がゆらゆらと舞い、夜に溶けてゆく。
「……あざす」
ネックウォーマーに顔をうずめながら、指先にカイロを当てた。女は満足そうに目を細めると、カイロが入っていたほうと反対側のポケットから小さな缶コーヒーを取り出して飲み始めた。無糖、と書かれている、無骨な黒い缶。あまりにも彼女に似合っている。少年は思わず、ネックウォーマーの下で破顔した。
「そういや」
ふと思い出したような口ぶりで女は再び少年へ話しかけた。
「自転車、どうした」
「えっ」
「うちの会社からよく見えたから。緑色の頭なんてなかなかいない」
女がひとつのビルを指差す。少年は、自分を知っていたから話しかけたのか、と納得したような表情を見せる。
「ああ……チッ……今はシーズンオフで……」
「ふうん。シーズンオフは何すんの」
「えっと……室内で三本ローラー回したり、します……ショ」
「三本ローラー? 腹筋ローラーみたいなやつか」
そう言いながら、コーヒーを持っていないほうの手で拳を作り、両腕を前後に動かす動作を見せる。その様子が女の雰囲気に不似合いで可笑しく、少年は声を上げて笑った。
「クハッ、全然違うっショ」
「きみは、笑うととてもかわいい顔をしている」
ごく自然に、今日の天気は雪ですね、とでもいうような口ぶりで女は言った。そのせいで、少年の反応は一瞬遅れた。言われたことを理解した刹那、勢いよく顔を上げ、女を見る。すると女は不思議そうに見つめ返し、微笑した。夜の雪が似合う、静かな笑みだった。
「ハァ!? な、なにキモいこと言ってんショ」
紅くなった頬を隠すように、少年は顔を元の位置へと戻す。
「キモい、か。たしかに、私は男子高校生にいきなり声をかけた怪しいオバサンだ」
「あ、いや、えっと……」
些か悲しそうな表情を見せた女に罰が悪くなったのか、少年は弁明を図る。しかし口下手な彼の口から巧い言葉は編み出されず、白い息だけが小刻みに宙へ浮かんだ。女は苦笑する。
「でも、ここで会ったのも、きっと何かの縁だ。私は」
「……巻島ス」
「巻島くん。きみと私は波長が合う気がする」
「……」
「だから話しかけてしまったんだと思う。変かな?」
は覗き込むように巻島へ笑いかける。彼は少年といえど、男だ。この柔和で美しい微笑に悪い気はしない。無言で軽く首を振った。
「なら、よかった。ところで、ここに突っ立って何してたんだ?」
「あッ! ……チッ……別に……もう帰ります」
「告白でもしようとしてたか〜? 青春——」
だなあ、とが言い終わるよりも先に、巻島が声を荒げる。
「違うっショ! 相手が! ここで……待ってろ、って……」
尻すぼみになってゆく声と不安そうな表情に、状況を察したような様子を見せる。
「下駄箱に匿名のラブレターが入ってて、ってやつか」
巻島は驚愕した表情でを見た。なぜ知っているのか、と問うように。すると彼女は、眉を下げ、同情する顔をした。
「学生らしい。タチの悪いイタズラだ。もう帰んな。きみ、しばらくここにいたんだろ? 待つ優しさがあるのはいいことだが、風邪引いちまうよ」
「言われなくても帰ります」
そう言うと憮然とした態度でへ背中を向け、バス停の方角へと歩いてゆく。数歩歩いたところで振り返ると、手に持っていたカイロをへと投げつけた。は咄嗟に片手でつかむ。まだ中身の入っているコーヒー缶が、チャプ、と小さく波を立てた。あと少しでも中身が多く入ったままだったら、臙脂色のマフラーに小さな染みが広がっていただろう。ほんの少し焦りを見せた巻島だったが、無事であったことを知ると、すぐに小さくチッと舌打ちして、
「……それ、あざっした」
と吐き捨てた。
そして踵を返す。街灯の下に残されたのはただひとり。その手には、まだ湯気の立つカイロと、冷え切ったコーヒー。視線の先に、遠ざかってゆく緑色の頭。
「巻島くん!」
巻島はゆっくりと振り向く。何も言わず、の次の言葉を待った。
「また会ったら、声をかけてもいいか」
「……」
小さく頷くと、寒いのか肩を竦めて歩き始めた。点在する街灯が時折巻島の姿を照らしたが、坂を過ぎると見えなくなった。は冷え切ったコーヒーを一気に飲み干す。彼女は依然として、巻島が帰っていった方角を眺めている。
「なんだあれ。かわいすぎる」
そして先ほどとは打って変わり、不気味な微笑を浮かべた。
「この寒い中、一時間も待つなんて思わなかったな」
氷のように冷たい缶を片手に、女は街灯へ背を向ける。
「健気で良い子だよ、まったく……」
ひとつ鼻で笑うと、積もり始めた雪を踏みつけるようにして歩き始めた。
「忍び込んだ甲斐があった」
その呟きは、誰の耳にも届かない。