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 まさに一目惚れだった。
 桜吹雪の舞う四月、の横を通り過ぎて行った一台の自転車。それに乗る、緑頭の男。薄い唇の間から漏れる不思議な旋律。奇抜な風貌とは裏腹に、清潔感のある品の良い香り。ほんの一瞬にして、心を奪っていった。
 魂が抜けたように立ちすくし、去ってゆく彼の背中を見つめる。その姿を、制服姿の男女が次々と追い越してゆく。多くの学校が入学式を行っている今日、人混みに紛れた彼女を気に留める者はいない。誰もが緊張した面持ちで、教室へと急ぐ。出席番号順に着席したら、前後左右のクラスメイトに話しかけるのだ。乗り遅れるとグループに属すことは難しい。十代が知っている、暗黙のルール。無論、もわきまえている。だからこそ今朝は六時から入念に髪をとかし、薄い紅が色づくリップクリームで唇を塗り、眉毛もきちんと整えた。話のきっかけになるよう、今テレビCMで人気俳優が宣伝しているグミも持ってきた。
 しかし、そんな努力も水の泡になるほどの時間、彼女は道端で足を止めていた。自身をそうさせた相手は、とうに視界から消え去っている。それでも、目に焼きついた光景が鼓動を高鳴らせ続けた。
 生まれて初めての感情。直立して深呼吸をする以外、対処の仕方を知らなかった。
 通り過ぎてゆく人影がまばらになったころ、桜の花びらがリップクリームの油分に引きつけられるように付着した。
下唇にかゆみを覚えたは、ようやく現実世界へと意識を戻す。つい先ほどまで、自分と同じ制服を身に纏った女生徒たちが周りにいたはずだが、いなくなっている。腕時計を確認すると、入学式が始まってからすでに二分が経過していた。慌てて走り出すが、大遅刻だ。なにせ彼女は、一般生徒よりも三十分早く到着していなければならない。その理由は──
「新入生代表のです。お待たせして申し訳ありません」
 彼女の挨拶が、入学式の項目の一つだったからだ。教師たちに背中を押されながら、カバンを持ったまま登壇した一人の少女。それだけでも皆の視線を集めていたが、次の一言で、全員が釘づけになった。
「少々、恋に落ちていたもので」
 数秒の沈黙のあと、体育館がどよめく。
「恋に落ちていたって何?」
「注目浴びようとしてるんでしょ」
「あれじゃん? 現代の女子校は、恋も勉強もがんばります、みたいな」
「ちょっと、静かにしてよ聞こえないじゃん」
 焦っているは、そんな注目を気にも留めず、カバンから取り出した紙を淡々と読み上げた。入学式を開催した教員たちへの謝辞に始まり、部活動を楽しみにしていることや、高校生活における抱負を述べる。
「勉学に励み、友と協力しあいながら学園生活を謳歌したいと思います」
無難でつまらない文字の羅列が、かえって冒頭の「恋」を際立たせる。想像力豊かな女子高生たちは、恋にまつわる話が後半に待ち受けているだろうと予測して期待に満ちた瞳で聴いている。もちろん伏線などない。
 挨拶を終わらせることで頭がいっぱいのは、紙の文面をひたすら追った。真面目な性分で、与えられた役目をなんとかこなそうとしている。いたって普通の、品行方正な内容。本来の彼女らしい内容ではあるが、生徒たちは、そもそもの"本来"を知らない。最後に何か面白いことを言うのではないかと、期待値だけが上がってゆく。しかし、優等生らしい挨拶はやがて「以上です」で結ばれた。彼女がお辞儀して幕の裏へと消えると、体育館は再びざわつき始める。
「今ので終わり? 恋のこと何も言わなかったけど」
「リアルガチ恋っぽい」
「まってまって、入学式で恋って、相手もしかして女の子?」
「先生とか?」
「いや、おじいちゃんしかいないしウチの学校」
「おじいちゃんフェチかもしんないじゃん」
 女子校特有の笑い声が響く。
 校長がマイクの前で手を叩き生徒たちを黙らせたが、時折小声で聞こえてくる会話はの話題で持ちきりだった。
 幕の裏では、古風で厳格な教師が青筋を立ててを叱っている。五十代半ばのベテランである彼女の歴史の中に存在しなかった、新入生代表の遅刻。さらに最悪なのは、自分の担任する生徒だということだ。恥をかかせられた憤りも相まって、鼻息を荒くしてクドクドと説教をするが、まったく聞いていないように見える。
「ちょっと、聞いてるの!?」
「あ、ハイ」
 ぽうっとした表情で生返事をする。教師は、ため息をつき、列に戻るよう促した。今は何を言っても無駄だと判断したのだ。
 クラスの列へ帰ってきたは、多くの生徒たちに囲まれた。はにかみながら、自転車ですれ違った他校の生徒に一目惚れした話をする彼女は一躍人気者になる。
 これが、数々の伝説を残す恋の始まりだった。







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