清貧




 美しく、小さなキスだった。


 が女中として巻島家に勤め始めたのは、十六の頃だ。当時の裕介はまだあどけなさの残る少年で、まだ髪の色は亜麻色のままだった。ほかの従者たちが皆年老いているのに対し、は一人だけ若かった。家は、昔から巻島家に従事している家系だ。その家系に生まれた者は幼いころから指導され、中学を卒業するとすぐに使役させられる。

 年齢が近いこともあり、裕介と(レン)を誰よりも慕った。自転車に乗る練習で後ろから支えたのも、洋服のボタンが外れたときに直したのも、夏休みの自由研究で炎天下の中カブトムシを一緒に探したのも、すべてだった。

 中学生に入った裕介は、のことを妙に意識するようになった。白いシャツの襟から覗く(うなじ)。エプロンの紐で強調された腰のくびれ。丸くふくらんだ乳房の曲線。に隠して収集し始めたグラビアで、同じような体型の女を見つけると、裕介は思わず想像してしまう。幼い頃から接している相手へそのような認識をしてしまうことを汚らわしく浅ましいと感じた裕介は、彼女から少しずつ距離を置くようになった。はそれを、ちょっとした反抗期だと受け入れていた。

 裕介の誕生日には毎年、から小さなプレゼントが贈られる。吸水性の良いスポーツ用のハンドタオルであったり、薄手の夏用カーディガンであったり、朝食用のマグカップであったりと、は毎年異なるものを選別していた。それを渡されることで、裕介はの愛情に触れ、安堵した。そっけない態度を取っても、今年も変わりなかったと、部屋に戻ってほっとため息をつくのだ。

 高校生になり、性の意識を制御できるようになった裕介だったが、あまりに長く離れてしまったため、への態度にはぎこちなさが残った。廉がイギリスへ行くと、二人の距離はさらに離れていった。そのことを憂うように、裕介は時折、部屋の窓からが庭掃除しているのを眺めていた。は、それに気づくとニッコリと微笑して手を振る。手を振りかえす裕介は、自然と口元に弧を描いている。



 ある日、盗難騒ぎが起こった。

 リビングに置いてあった一輪挿しが、なくなっていたのだ。空き巣であれば他の場所も荒らされていようが、それだけが忽然と消えていた。それは、その価値を知っている者の犯行だと思われた。すると真っ先に疑われたのはだ。昔から執務しているがために家中のものごとを把握しており、生まれの貧しい者。それでいて、紛失した時間帯に近くにいた人物。該当するのはただ一人だった。その時間、リビングおよびその左右の部屋の清掃を担当していたのが彼女だ。もちろん、外部の犯行であることも想定されたが、一輪挿しがなくなったのは客人のいない時間だったのだ。窓も割れておらず、誰かが侵入した形跡もない。となると──全員が疑いの目を向けた。本来であればすぐにでも解雇へ至るような事柄だが、家としての長い付き合いから、多少優遇されたのだ。別の階を掃除していたの両親が駆けつけると、家の面汚しと罵った。

 その騒ぎで家がざわついているところへ、制服を着たままの裕介が帰ってきた。盗難騒ぎでが疑われていると知れば、

 「が盗むなんてありえないショ。ちゃんと探したかァ? つか盗まれたの何ショ」

 と、何でもないような顔でカバンを下ろして椅子に掛ける。

 盗まれたのが一輪挿しだと聞くと、裕介はハッとした表情のあとに青ざめる。実は今朝、一輪挿しを割ってしまい、「バレたらヤバいっショ」とすぐにかき集めて袋に入れ、学校まで持ってきていたのだ。校内にて接着剤で修復しようとしたものの上手くいかず、結局そのまま持ち帰ってきた。つまり、なくなった一輪挿しは今、割れた姿で裕介のカバンの中に入っている。

 青ざめた裕介と目が合ったは、人差し指を立て、そっと口元へ運ぶ。すべて知っているのだ。裕介の鼓動が早くなる。裕介が「えと」「いや」と真実を話そうとするたび、机を挟んだ先にいるが、人差し指でトントンと唇を叩いた。それは昔から、裕介が乱雑な言葉遣いをしたときにする仕草だった。言ってはいけません、の意だ。

 結局、の手荷物や洋服のどこを探しても見つからず、事件は迷宮入りとなった。巻島家として、周囲に内部での騒動があったと知られることを避け、警察を呼ぶことはしなかった。家を免職することでも妙な噂が立つだろうことを懸念し、は今まで通り、働くこととなった。厳密に言えば、今まで通り、ではなく小型の監視カメラつきだったが。

 ほとぼりが冷めたころ、と二人になった裕介は、件のことを尋ねる。ソファに座る裕介にノンカフェインの紅茶を出しながら、は破顔する。

 「盗まれたものをご存知でないのに、私ではないと、すぐに信じてくださったでしょう」

 そう言って、幼い頃のように、額にキスをした。

 「貴方さえ信じてくださるのならば、それで構わないのですよ」

 聖母のような微笑に、裕介は言葉を失う。

「オレは──」結果的にを盾にして逃げたのだ。自らの保身のために。富饒(ふじょう)な家に育ちながら、欲に(まみ)れた己を恥じた。




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