ひとつだけイレギュラー
「こうやってカラーリングするのも最後なんですねぇ」
「いや、またいつか戻ってくるショ。そのときはさんに頼みます」
「え、じゃあ次に巻島さん来るまで独立できないのかぁ」
「つか独立する気ないショ」
ほぼ一年前の会話だ。
渡英すると決まった巻島は、総北高校自転車競技部として最後のインターハイを終え、出発する一週間前、美容院へ訪れていた。
いつも通り、カットとカラーリング、トリートメントのメニュー。
毎度のごとく予約時間の十五分前に到着した巻島は、待合室で雑誌を読み始める。はというと、奥の席に座っている女性に話しかけながら、手際よくカット中だ。相変わらず人気のスタイリストで、予定は常に超満員。巻島は男性用ファッション誌をパラパラと捲りながら、担当である彼女から声がかかるのを待った。
五分後、が巻島の元へ駆け寄り、席へと案内する。いつものようにコームで巻島の髪を梳かしながら、はインターハイの功績を讃えた。総合一位おめでとうございます、すごいですね、箱根暑かったですか、と矢継ぎ早に話しかける。巻島は困ったように笑うと、「そうスね」と箱根が暑かったことだけに触れた。
今日のオーダーは? 前回と同じで。毎回繰り返されるお約束のようなやり取りをすると、普段通りカット台へ案内され、まずはカラーリングをする。
毛を染め始めてすでに十分が経過していたが、が集中していたこともあり、無言だった。巻島はこれまでと同じように、手元の雑誌を読んでいる。塗料が散布された髪は、全体的にしっとりとした状態だ。少し余裕の出たは、不意に巻島へ尋ねた。
「そういえば、来月の予約どうします? わたし遅めの夏休みいただくかもしれなくて」
いつもであれば、一ヶ月先の予約をしてから巻島は帰る。しかしちょうどその時期、の夏季休暇が入る予定だった。巻島は言いにくそうに視線を雑誌から外してを鏡越しに見ると、意を決して言い放った。
「あー……それなんスけど、来月から来ないんで大丈夫ス」
一瞬の沈黙。
「え、あー、そうなんですねぇ。さみしいなぁ」
「あ、っと、勘違いしないでほしいんスけどさんが悪ィとかじゃなくて、オレ留学するんショ、来週から」
表情が曇ったに焦りの色を見せた巻島は、早口で理由を告げた。巻島の髪へ染料を塗り伸ばしていたが、はた、と止まり、鏡越しに巻島と目を合わせる。しかし、すぐに巻島の頭部へと視線を戻すと、またカラー材を塗ってゆく。そして何事もなかったように話し始めた。
「そうなんですねぇ。あ、ツール・ド・フランスってありますよね。フランスですか?」
「いや、イギリスです」
「イギリスもロードバイク盛んなんですか?」
「えと、兄貴が……兄がイギリスで独立してて、その仕事手伝いつつ大学に行く予定ス」
「へぇー! あれ、待って、巻島さんまだ十八ですよね? 考え方がすごい大人だぁ」
「クハ、んなことないショ。普通っス、普通」
「普通の高校生はもっとこう……こう、こんな感じですよぉ」
が口を半開きにして目を空に向ける。
「クックッ……それ、悪意ありすぎショ……ククッ……」
巻島が堪えきれずに笑い出すと、もつられて笑う。ラップで髪を包みながら、サービスのドリンクは何にしますか、と問う。の顔がよほどおかしかったのか、巻島は笑い続けながら冷たいハーブティを頼んだ。今までと同じ注文。巻島がこの美容院に通い始めてから今に到るまで、計三十一回、それを飲んでいた。
弱い熱風を出す輪形のマシンが、巻島の頭上にセットされる。ピッ、と稼働音が鳴ると、輪がゆっくりと回り始め、その中央にある巻島の頭部へと熱を与えてゆく。そのまま三十分ほど、とが告げて席を離れていった。また新しい客が来て、話を聞きながら髪をコームで撫でている。アシスタントである若い男が巻島の席にハーブティーを配膳し、追加の雑誌を数冊持ってきた。相変わらず調子の良さそうなその男は、毎度のごとく「巻島さんが好きそうなグラビア載ってますよ」と青年誌を置いていった。
三十分後、は巻島につけていたマシンをどかし、ラップをほどいて状態を見る。そして巻島の予想通り「んー、もうあと少しだけ、置きますね」と告げると、また忙しなくバックヤードへ物を取りに行った。巻島はストローでハーブティーを啜りながらグラビアをじっと眺めた。
ショートカットの女が、歯を見せて笑っている。健康的に引き締まった細身の体。すらりと伸びた太ももに巻島の目は釘付けだ。はそんな巻島へ後ろから声をかけ、「悪いですけど、もう髪洗いに行きますよぉ」とシャンプー台へ誘導する。そして「お湯加減いかがですか」「流したりないところございますか」などと声をかけながら髪を洗う。シャンプーをしているとき、は雑談をしない。約二年前、それに気づいた巻島はに聞いたことがある。回答は、「シャワーの音で聞こえないかと思って」。それだけの理由だった。
ふたたびカット台へ戻ってきた巻島の髪をカットしてゆく。伸ばし続けているため、あまり切る箇所はない。毛先を整え、毛量を軽くし、前髪を二センチほど切る。毎月恒例の光景だ。ショキン、ショキン、と刃物が重なり合う小気味好い音を鳴らしながら、は世間話を始めた。高校は中退扱いになるんですか、とか、卒業アルバム丸で囲われて掲載されるやつですね、とか、最近のイギリスは食べ物おいしいらしいですよ、とか、今までと変わりなく、普通の話。受け答えが下手な巻島にめげることなく、はいつでも、何かしら話題を提供していた。
「いったん乾かしてからまた細かい調整しますね」
そう言うとドライヤーをコンセントに繋げ、電源を入れる。風が轟々と音を立てて巻島の髪を翻す。長い髪を根気よくブローしながら、は自分が作り上げた巻島の色に満足気な表情を見せている。巻島の目線はグラビア雑誌でも自分の髪でもなく、の横顔だ。
「好きだ、」
「ん? すみません、熱かったです?」
はドライヤーを止めて聞き直す。
「なんか口動かしてたように見えたんですけど」
「あ、別に……今しゃべってもドライヤーの音で聞こえないショ」
しどろもどろになりながら巻島は笑って誤魔化した。
「そうですねー、あんまり聞こえないんで、熱かったら顔で訴えてくださーい」
「顔で!?」
「そう、顔で」
がふふ、と軽く笑うと、巻島もつられるようにクク、と笑う。ドライヤーのスイッチを入れ直してまた乾かし始めると、途中でが口をパクパクと動かし始めた。
「同じく」
そしてまたスイッチを切る。
「ね、ドライヤーの音で聞こえないでしょう」
「はいショ」
巻島が頷くと、染めたばかりの鮮やかな緑が揺れる。そして下がり気味の眉をさらに曲げては、付け足すように言った。
「全然」
「…………じゃ、スタイリング剤つけて整えていきますねぇ」
子供のような笑顔を浮かべたが、鏡の中の巻島と目を合わせる。
「うす」
そしてスタイリング剤を手に取ると、手のひらで薄く伸ばして巻島の髪を整えてゆく。少し癖のある毛が軽やかに弾む。最後に前髪を整えると、鏡を見せて仕上がりを確認させた。口角を上げる巻島を見たも笑顔で頷き、ケープを外す。緑色の毛束が、するりと落ちた。
「じゃあ、イギリスでもがんばってくださいねぇ」
「さんも」
「はーい、ありがとうございます」
「じゃ……また、いつか」
巻島が出口へと向かう。はドアへと駆け寄り、巻島のために開けてお辞儀をした。毎回、深く頭を下げて、彼の姿が見えなくなるまでその姿勢を保つ。今日もまた、ビルの彼方へ巻島が消えるまで、そうしていた。
が顔を上げる。巻島はすでに店舗から離れ、背中さえ見えなかった。
疲れた顔で小さくため息をついて店のドアを閉める。外で鳴いていた蝉の声も、青々とした緑の香りも、湿気のある空気も遮断される。夏が追い出されたような店内には、無機質な匂いと快適な温度、そしてドライヤーの音が漂っていた。
次の客が来るまで一時間ほど余裕がある。休憩を取るように店長から告げられたは、バックヤードでサンドイッチを広げた。そこへアシスタントの男も合流すると、すぐにへと声をかけた。
「さん、俺見ちゃったんすけど、アレ、ふたりとも聞こえてましたよね?」
「いやー、聞こえてなかったよー? 巻島くんもそう言ってたじゃん」
「でも」
「ドライヤー止めて聞いても言い直さなかったし、大したことじゃなかったんだと思うなぁ」
「……それでいいなら、いいですけど」
「それでいいも何も、『そう』だったんだから」
「さん……俺、知ってますよ。シャンプー台でもたまにやってたくせに」
「んー? なんのことかなぁ」
「客だからですか?」
「よく分かんないけど、わたしが美容師で、巻島くんがお客さんなのは当たり前のことでしょ」
「なんか……いや、なんでもないです」
はこれ以上何も話しかけるなと言わんばかりに携帯電話をいじりながらパンへ齧りつく。男は嘆息を漏らすと、彼女の意志を汲み取り、もう話しかけないことにした。
休憩を終えたは、いつもと同じように、夜十時まで働く。最後の客を見送ると、軽く掃除をして店長とアシスタントに手を振り、「いやぁ、先あがっちゃってすいません」と軽薄な笑みを浮かべて去ってゆく。そこに周囲からの苛立ちや呆れはない。彼女の雰囲気があってこそできる処世術だ。
ドアが閉まった後、ふたりの男が口を開く。
「俺、あの人が何考えてんのか分からないです」
「奇遇だな、俺もだよ」
「いつも通り」がなくなるときの虚無感と、新たな「いつも通り」が始まる期待感。はすでに新しいそれに順応していた。巻島が定期的に来なくなり、その枠に新しい客が入れ替わり立ち替わり入り、何人かはリピーターになった。
鮮やかな緑をベースに赤メッシュを入れて欲しい。そんなオーダーがなくなって約一年が経つ。毎月していたことだけに、ひとつだけ抜け落ちたような違和感があった。その違和感とは別れを告げて、今年、夏という季節を迎えた。客の中には時折、毛先にのみ緑を入れて欲しいと言う人がいた。そんなとき、あと少しで底が見えそうな緑色の容器が嫌でもの目についた。その都度、一度立ち止まって数秒、中を見つめてしまう。あの夏に帰ったような心地がした。味などないはずの思い出が、それでも甘く苦い何かが、の舌を痺れさせる。
またいつか、と巻島は言った。
それはどれほどの時間を表すのか、に知る術はない。巻島家としての連絡先は分かるが、巻島裕介の連絡先は知らない。巻島のカルテには、自宅の住所と固定電話のみが書かれている。当時携帯電話を持ち始めたばかりだった巻島は、自身の携帯番号とメールアドレスを確認する方法を知らず、面倒くさがった挙句に空欄にしていた。それ以前に、知っていたとしてもイギリスでその番号は使えない。
巻島も、店の情報は分かるが、個人の連絡先は分からない。どんなに最先端の技術があって、どんなに離れていても連絡が取れる装置があったとしても、心の距離まではどうにもならない。
「あ」
そのハーブティーがの店でいつも飲んでいたものと同じだと、巻島は気づく。ふと立ち寄った喫茶店のテラスで懐かしい味に思いを馳せ、街ゆく人々を目で追った。後ろ姿がに似ている女性を見ると、ほんの少しの理想を描いては、振り向いた顔を見て、悲しみに暮れる。そして何度も髪に触れては、光に透かして玉虫色の世界を見る。あれから別の美容師に何度も染められており、の色は、もう、ない。
「ちっと違うよなァ」
不満げに呟くと、指先に絡めていた髪をそっと放つ。くる、と跳ねた毛先が空を舞う。
同じ距離にいたなら、今のふたりは何か変わっていただろうか。去る者を追うのは巻島の性分ではない。それはも同じだった。ついてきてくれるならどこまでだって引っ張って行くが、離れるつもりであれば自由にさせてやる。それがお互い、楽で良い生き方だと思うから。
「ケセラセラ、ねェ……」
あのときの感情を、ふたりは秘密にして生きてゆく。
分かりやすく繋ぎとめられる関係になんてならなくても良かった。お互いの感情が同じだと知っていれば、それ以上は望まなかった。ふっと湧いた感情をいつまでも持続できると誓えるほど青くなかった。手を繋いで見えない穴へ飛び込むより、手を離して分かりきった道を行くことを選んでしまった。しかし運命なら。ふたりが繋がる運命なら、また手を掴める機会が訪れる。そう願わずにはいられなかった。
ふたりとも、いつかどこかで、会える気がしていた。
イメージBGM:中村佳穂「きっとね!」