いま□ら




 三月、小野田が二十歳の誕生日を迎えた。六月、金城の内定先が決まった。八月、巻島が一時帰国することになった。条件は整ったと言わんばかりの状況から、酒を交えて元総北高校自転車競技部の面々で集まろう、という話へと繋がった。どこからか話を聞きつけた鏑木は自分が誘われなかったことに不服顔だ。鳴子はそれを見て「おまえはまだ十九のお子チャマやからな!」と自慢気に笑っていた。

 そんな鳴子が予約していたのは、この大衆居酒屋だ。白い暖簾には黒い筆文字で「鶏一番屋」と書かれている。長くやっているのか、ところどころに茶色い染みが付着している。その横に吊り下げられている赤ちょうちんは、ホッピーを提供していることを示していた。手動の引き戸をガラガラと開けると、店員が元気よく「らっしゃい!」と声を上げる。

 最初に店へ入ったのは金城だった。

 十人分の座布団が置かれた座敷部屋に通される。靴を脱ぐと端に揃えて置き、テーブルに置かれていたメニュー表を眺める。ラミネートでつやつやと光る「飲み放題メニュー」と書かれたそれは、定型とも言えるようにビールから始まり、レモンハイやウーロンハイ、カクテル、グラスワイン、焼酎、ソフトドリンクの名前が陳列されていた。裏側には、今晩提供される食事が書かれている。枝豆タワー、大盛りサラダ、山盛り唐揚げ、大満足串焼き、こんもりチャーハン。鳴子らしい、と金城は思わず口元に弧を描く。

 金城が到着して三分後、田所が到着した。急いで靴を脱ぐと雑に端へと寄せ、ふたりは顔を輝かせながら、どちらともなくハイタッチした。そのすぐ後に今泉と古賀が入店した。駅で偶然会ったのだと話しながら、並んで座る二人の前に掛ける。金城の前に今泉、田所の前に古賀だ。

 手嶋と青八木は駅で待ち合わせて二人で歩いてきた。古賀の隣に手嶋が座り、その横へ青八木が腰掛ける。手嶋と青八木の少し後ろを歩いていたのは杉元だ。人が多く、杉元から手嶋たちの姿は見えなかったらしい。

 そんな杉元の背中を発見した小野田は、彼の名前を呼びかけながら追いかけた。旧友との再会に嬉しそうな顔で振り返った杉元は足を止める。歩幅を合わせた二人は共に引き戸を開けて入った。金城たちの姿が見えた小野田は、小走りに駆け寄る。靴を脱ぎ捨てて今泉の隣に着席し、みんなで集まるのは久しぶりですね、と顔を綻ばせた。杉元は小言を言いながらもその靴を軽く整えると、座敷へ上がり、小野田の右に腰掛ける。

 小野田たちが来た道とは異なる方角から姿を見せたのは鳴子だ。ガラガラと勢いよく戸を開け、「田中くん今日はよろしゅーなー!!」と店員に声をかけながら座敷のほうへと向かう。田中くん、と呼ばれた若い男と「おう、ハメはずすなよ」「多少はハメはずすわ、久々のメンツやし。サービスしてやー」など調子よく二、三言交わすと、音を立てて青八木の隣へ座る。

 最後に現れたのは巻島だ。

 「悪ぃな、飛行機が予定より遅れてたっショ」

 キャリーケースを座敷の横につけた巻島が靴を脱ぐ。巻島が日本に滞在する期間の中で全員が集まれる日となると、この日しかなかったのだ。イギリスから直接来た巻島には少し疲れが残っていたが、全員の顔を見て元気を取り戻したらしい。

 小野田は「巻島さん!!」と両手で真ん中の席を示す。田所と小野田の間にある座布団は紺色で、何人もが座ったのか一部が白く変色している。巻島は「オレは端でいいっショ、入りにくいだろ」と断った。しかし田所がその席をバンバンと叩き「来いよ巻島ァ、話そうぜ!」と豪快に声をかけたのを見て折れた。呆れながらも、その表情はどこか嬉しそうだ。杉元と小野田の後ろを窮屈そうに通って腰掛ける。役者は揃った。鳴子は近くにいた田中を呼びつけ、飲み放題二時間コースを始めるように要請した。そしてテキパキと全員分の注文を伝えてゆく。ビールを六杯、レモンハイを二杯、ウーロンハイを一杯、トロピカルピーチジンジャーハイを一杯。注文を復唱して確認を取ったのち、少々お待ちくださいませ、と言いながら厨房へと戻って行った。



 「乾杯!」

 「かんぱーーい!!」

 金城の声に続き、全員がグラスを上げる。ガチン、とグラス同士がぶつかる音が響いた。次の瞬間、田所が一杯目のジョッキを早々に空にした。大声で「生ビール一杯追加ァ!」と叫ぶと、厨房から「はい、よろこんでー!」と威勢のいい返事があった。青八木と鳴子は目を丸くしたあと互いに頷き合い、競うようにグラスを煽る。それを見た田所がニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべた。そして、数秒後に店員が持ってきたジョッキをその場で飲み干すと、すぐにおかわりを要求した。

 「オッサン早すぎやろ!!」

 「!!!」

 二人は負けじと手の中のジョッキを傾ける。両者とも頬に赤みが増したのを見た巻島は、田所の手からジョッキを奪い取る。そのまま、ジョッキは少し離れたところに置いた。

 「田所っち! 煽んなショ、こいつら酒弱かったらどうする!!」

 「知らねーよ、オレはオレのペースで飲んでるだけだ」

 そう言って再びジョッキに手を伸ばして取り返すと、またも数秒のうちに飲み干す。乾杯をして十五分、すでに四杯目のビールを店員に要求した田所は、次のジョッキが届くまでにツマミに箸を伸ばす。山盛りに積み上げられていた唐揚げがみるみるうちに減り、残り三つとなった。巻島はため息をつきながら、手元のトロピカルピーチジンジャーハイを少しずつ飲んでゆく。おまえら無理すんなヨ、と声はかけるものの、負けず嫌いの三人が無理をしないはずもなかった。



 三十分後、案の定、といった状況が待ちうけていた。

 かかってきた電話のために田所が離席すると、飲むペースが緩和されたのか、青八木と鳴子の手が止まった。そして、震えるような手つきでグラスをテーブルに置く。さきほどまで赤かった顔が徐々に蒼くなっていった。巻島はシンクロするかのような二人の様子に眉根を顰める。

 「アカン、なんかワイ……ウンコ以外のモンが漏れそうや……」

 「やっぱりか!!」

 「……」

 「つか青八木も頷くなっショーー!! 仕方ないショ、手嶋ァ、手ェ貸せ!!」

 「巻島さん、隣、小野田も……」

 「し、焼酎ってこんな感じなんです……ね」

 「倒れたーーッ!? つか焼酎なんて飲ませたの誰だよ!?」

 「すまん、オレだ」

 「金城ォ……」

 いつの間にか席を移動していた金城は小野田の隣に座っている。もともと座っていた杉元は、と巻島が見渡すと、隅のほうで今泉と古賀との三人で話に花を咲かせていた。何やらメカに関する話を膨らませている。そこだけが切り取られたかのように平和だ。ほろ酔いではあるが、楽しげに会話をしている。

 「責任を取ってオレが小野田を見よう。手嶋、青八木を頼めるか?」

 「あ、はい!!」

 「巻島さん、コレ、アカンですわ、間に合わん……」

 「間に合わせろショ!!!」

 巻島は鳴子の脇を抱えるようにしてトイレへと運んでゆく。この際、センスがどうとは言っていられなかったのか、店の便所サンダルをつっかけて大急ぎで運ぶ。間一髪で間に合ったものの、一気に疲れがきたのか、巻島は深いため息を吐いた。後ろから青八木を抱えてやってきた手嶋が苦笑して「帰国早々、お疲れさまです」と労った。「まったくな」と困ったように笑うと、赤と黄のえずく後ろ姿を二人して呆れた顔で見やる。

 「そういや、こんなときに微妙かもしれないんですけど、オレ巻島さんに聞いてみたかったことがあって」

 「何ショ」

 「高校の時彼女いたってマジですか?」

 「!?」

 見開かれた巻島の目が手嶋のほうへ向く。

 「どこで知った?」

 「少し前に田所さんから聞いて。本当なんですね」

 「……まァな」

 「ハハ……やっぱすげーな、巻島さん。オレ、彼女つくってたらインハイなんて行けなかったと思います」

 「んなことねーよ。オレはおまえが努力したのを知ってる。彼女いたって出来たさ」

 「巻島さん……」

 「ええ雰囲気のとこスンマセン、でも巻島さん彼女いたんスか!? どんな人スか!?」

 「オレも気になります」

 いつの間にか回復した二人が詰め寄る。体調戻ったんなら席に行くぞ、他の客の迷惑だ、と巻島が促し、四人でトイレを後にする。そこへ携帯電話を片手に持った田所が帰ってきた。

 「田所っち、手嶋にのこと話したショ」

 「あァ、あれか。時効かと思ってよ」

 まるで悪気のカケラもない田所の返答に対し、あきれたようにため息をつく。五人で座敷へと戻ると、小野田は寝息を立てており、金城の上着がかけられていた。その隣の空いている場所へ、巻島を囲うように五人で座る。小野田、金城、鳴子、巻島、田所、手嶋、青八木の順だ。座敷の隅では、相変わらず今泉たち三人が自転車話に夢中になっている。

 鳴子は拳を握ると、巻島の口元へ向けた。その手をマイクに見立て、インタビュアーのように質問をしてゆく。

 「どんな人やったんスか?」

 「ん……まァ普通の奴ショ」

 「またまたァ〜。田所さん、見たことあるんですよね?」

 「ああ、実際普通の女子って感じだったぜ。どっちかっつーと地味な感じの」

 「おしとやかって言うんショあれは」

 「ノロけとるやないですかァ」

 「う」

 「じゃあ、金城さんから見てどうでした?」

 「そうだな。おしとやかではあるが、したたかでもあったと思う」

 「したたか、か。たしかにワカる気がするっショ」

 巻島が何かを思い出したようにクク、と笑う。

 「告白したのもさんからだったよな」

 「ん…まァな」

 「伝説のバレンタイン事件、だろ?」

 「なんスかそれ、メッチャ気になる」

 「わざわざ話すことでもないショ」

 「巻島さん、オレも聞きたいです」

 「ハァ……まァいいショ。あいつは──オレのクラスまで走って来た。ローファー片手に、靴下のままでな。教室に『たのもー!』つって入ってきて、でけーチョコをオレにおしつけて、『お返事は来週に伺います! では、ごきげんよう!』って…帰っていった」

 「……普通……」

 青八木が小さな声で口籠もりながら首を捻る。

 「全然『普通』じゃないよな」

 手嶋がそれに同調するように言うと、コクリ、と頷いた。

 「オレはあいつが巻島に告白したとしか聞いてなかったぜ。付き合い始めてからは本当に普通の女子ってイメージしかねェよ」

 「オレもだ」

 「あのときは……放課後でほとんど人いなかったからな。オレも今はじめて話したっショ」

 「それってオレらが総北にいる頃の話っスか?」

 「いや、オレが一年の頃の話ショ」

 「付き合ってたのはそこから三年の夏までずっとだろう」

 「ふたりでうちにパン買いに来たよな」

 「……そうだな、懐かしいショ」

 「きなこ揚げパンとうさぎパン、気に入ってたな」

 「あァ……放課後よく寄ったっショ」

 「制服デート!? メッチャ青春しとる」

 「制服? 一年の冬から三年の夏までって……オレら見かけたことないですけど」

 「は佐久良女子学園だ。校内で会わなかったのはそれが理由っショ」

 「女子校!?」

 三人の声が重なった。想定外の回答に驚いたようだ。

 「あ、だからバレンタインのときローファー片手に入ってきたってことですか?」

 「あァ」

 「ホンマ行動力すごい人スね」

 「そうなんだ。昔から、巻島のファンだったよな。さん」

 金城が懐かしむように言う。

 「いつも坂んトコまで来て応援してたしな」

 「歩きでも結構疲れるような場所でも、必ず坂のところにいたな」

 「付き合ってからはたまに文句言われたショ、今回はキツすぎる、とかな」

 「え、なのに毎回行くって……それメッチャ健気な子やないですか!」

 「いい彼女ですね。正直うらやましいです」

 青八木も黙ったまま深く頷く。

 「……そうだな。オレにはもったいねェっていつも思ってたショ」

 「本当にな! ガハハハハ」

 「笑いすぎショ、田所っち!」

 「ああ、そういや、巻島が女子校の前で通報されたこともあったな」

 「あれは不可抗力ショ!! 待ってただけなのに『不審な男子生徒がいる』って通報されてヨ、女子校の先生に追いかけられて色々聞かれて」

 「ふ、不審な男子生徒……ッ!ブッ……す、すいません…!!」

 「笑うなっショ手嶋ァ!」

 「いやこれは笑っても仕方ねェだろ。おまえの鉄板ネタじゃねーか」

 「ネタじゃないショ!! もうちょっとで出場停止になるとこだったんだぜ」

 「ああ。フフッ……。さんが説明しなかったら危うかったな」

 「伝説の演説、だろ。『巻島くんは高校一年生なのに自転車のヒルクライムって大会で優勝したし、英語も堪能で、すごい人だから、佐久良女子学園の生徒がお付き合いできているというのは、誇るべき事実なんですー』って結構な大声で言ったんだっけか。職員室の近くにいた全員が聞いたって話だったぜ。なァ?」

 「ひゅーひゅー!!」

 「あれ以来、先生から髪のこと言われなくなったんじゃないか?」

 「だな。が模倣生徒だったからショ」

 「あんときの手のひら返しはスゴかったぜ」

 「よっぽど信頼の厚い人だったんですね」

 「あァ。見た目も成績も素行も、悪いトコひとつもないヤツだったショ」

 「……巻島さんのノロケ、Sレアだ」

 「聞こえてるショ青八木ィ」

 「けど、ところどころ豪快だったよな。うさぎパン、必ず頭から食うしよ」

 「巻島のドリンク作ってきたときも、配分が雑すぎてほぼクエン酸だったな」

 「それがのおもしろいトコっショ。見た目との差があってヨ……」

 「あの、なんで別れたんスか?」

 「おいスカシ急に割り込んでくんなや!」

 「今泉、それは今聞いていいことだったのかい!?」

 「場の流れってものがあるだろ」

 いつの間にか今泉、杉元、古賀の三人も輪に加わって巻島の話を聞いていた。

 「あーいや、いいっショ。イギリス行くからって言って別れた。それだけの話だ」

 「それだけ……て……」

 鳴子が絶句する。

 「どー考えても未練タラッタラやないですか!」

 「ホントですよ!」

 「正直ダサいっス」

 「巻島さん……」

 「ええっとそのボクとしては……」

 「……」

 非難轟々の嵐だ。青八木も、言葉では何も言わないがじっとりとした目つきで巻島を見る。そんな全員の様子を、鼻で笑ってあしらう話の中心人物。別れた当時のことを知っている金城と田所は、やり切れない顔で巻島を見やる。

 「金城、田所っち……そんな顔で見るなショ」

 巻島は睫毛を伏せる。

 「ま、当時のオレには色々と壁がありすぎたんだワ」

 その言葉を目覚ましとしたように、金城の隣で寝ていたはずの小野田がガバッと勢いよく起き上がった。

 「壁……」

 そう寝惚け眼で呟くと、

 「突破するしかないショ!!」

 と人差し指を突き上げ、目を開ける。

 「ええで小野田くん、もっと言ったれ!!」

 「ナイスタイミングだ」

 「小野田らしいな」

 「ガハハハ」

 「え? え? あれ?」

 まだ夢心地なのか、小野田は辺りをキョロキョロと見回し始める。巻島に焦点を当てるとバタバタと四つん這いの状態で駆け寄り、慌てふためいてすみませんと繰り返し謝る。

 「謝るこたァないさ。……クハ、それ当時のオレに言ってやってほしいショ」

 巻島は小野田の頭に手のひらを乗せ、軽く二度、撫でた。

 「さんと連絡とれないのか?」

 金城が聞く。巻島は視線を斜め右上から斜め左下に動かしたあと、苦しそうな笑みを浮かべた。

 「───いや、今さらっショ。あいつはあいつで、もう新しいヤツと上手くやってるはずだ。水差すようなことはしたくないショ」

 「あの、」

 巻島が言い終わる直前、手嶋が食い気味に発言する。

 「今だから、じゃないんですか。だってさっき、巻島さん、“当時のオレには”って言いましたよね。それって、“今のオレには”どうにかできるって意味っぽく聞こえましたけど?」

 ほくそ笑むその顔を見て、巻島は眉間に皺を寄せる。

 「いよっ! さっすがパーマ先輩!!」

 「さすがだな、純太」

 「やれやれ……おまえ…目ざといヤツっショ……」

 巻島は後頭部をガリガリと掻くと、観念したように話し出す。

 「ホントは今回の帰国、に……連絡するつもりだった。けど、電話番号もメールアドレスも変えてた。つまり、そういうことショ。仮にあいつがまだ一人だったとして、打つ手ナシの状態なんだ。あいつ以外に女子校に知り合いなんざいねェし、どうしようもないショ」

 「そんな……」

 状況をよく把握していない小野田だが、巻島の表情に感嘆の音を上げる。

 「巻島さん、その方の進路も知らないんスか?」

 「そういう話する前にイギリス行っちまったからなァ」

 「せやで、スカシ。もっと考えな。……ほな、あれや! オッサンのパン! 買いに来たりとか」

 「あー、巻島と別れちまってから来てねェよ」

 「あちゃー!」

 「金城さん、年齢同じなら就職活動で同じ会社受けたりとかは」

 「記憶にないな。広い会場ならいたかもしれんが」

 「……! 女子校に忍び込む……!!」

 「卒業アルバムから探るってことか? 確実かもしれないけど、見つかったらそれこそ確実に通報されるだろ。オレらもう高校生ですらないんだぜ」

 「ご自宅は? 二年もお付き合いしていたなら一度くらいは行っているんじゃ……」

 杉元が尋ねると、金城、田所、巻島の三人ともが顔を曇らせた。

 「……」

 「あー、そいつは無理な話だぜ」

 「あァ……できねェだろうな」

 「どうしてですか」

 古賀が広い肩幅を狭めながら、首を伸ばして巻島へ聞く。

 「別れ話になったのは、あいつの家の問題もあるからショ」

 「家の問題って何スか」

 「次々とよく聞くショ、おまえら」

 グラスの三センチほどしか残っていないトロピカルピーチジンジャーハイをグッと飲み干すと、空いたグラスを端に寄せる。店員がそれを下げている間に、同じものをもう一杯追加で頼む。田所のグラスが空いているのを指差して「何か頼むか?」とメニューを渡すが、彼はそれを一切見ずに「生ビール追加で」と即答した。

 「オッサンよう飲むなァ。ワイ酒はもうええわ、巻島さんの話のがウマいしな」

 「……オレも」

 「まァ、そうしてくれたほうが助かるショ。手嶋もオレもな」

 「そうですね。でもオレも、巻島さんの話もっと聞きたいです」

 「ちゅーか話してくれへんのやったらまた飲みます」

 「同じく」

 「脅しかヨ……けど、今さら色々聞いたってつまんないショ。もう五年も前の話だぜ?」

 「だからこそ気になるんスわ! なァ小野田くん」

 「うん! 実はまだよく分かってないけど……巻島さんのお話は聞きたいです!」

 「やれやれ……。は───あァ、小野田は寝てたんだっけか。ってのは、オレの昔の彼女のことショ。そいつは、別にすげェお嬢様ってワケじゃないが、普通に可愛がられて育った娘だ。それがオレみたいな男に惚れた上にイギリスへついて行こうとした。しかも十八のときショ。だから、オレが日本を発つまで半ば監禁状態にされた。携帯も取り上げられて、家から出してもらえない状態にされてな」

 「じゃあ巻島さん、ちゃんとした別れ話すらできてないってことですか?」

 手嶋が前のめりになりながら聞くと、巻島が途端に肩を震わせ始めた。

 「クハッ……それがヨ……クックッ……あいつ抜け出してきたんショ。二階にある部屋からベッドのシーツやらタオルやら結んで、窓からよじ降りて、裸足のまま、自転車こいで、オレの家までな。イギリス行く前日で、深夜の一時ごろだったか? オレの部屋の窓に石ぶつけてさ、下見たらがいたんショ。んで、オレが窓開けて────ああ、あのときも『たのもー!』って言ってきたんショ」

 「なんやその恋愛ドラマのワンシーンみたいなんは……!!」

 「どちらかっつーと男のほうがやりそうなものスけどね」

 「細かいことはええやろスカシ」

 「なんだか憧れちゃいます!! ラブコメの主人公みたいですね!!」

 「本当にな! 巻島はオレらの世代では一番恋愛してただろうよ」

 腕を組んだ田所が二度深く頷く。

 「恋愛してたって……クハ、くさいこと言うなショ。けどホント、あのときまではも笑ってたな。暗い中であいつの歯だけが白く光ってたのをよく覚えてる。悪いことしちまったって、イタズラしちまったときみてェな笑い方してたな。それ見て、オレも急いで外まで出て行ったんだ。そのときに初めて、が裸足ってことに気づいたんショ。だからオレのサンダル履かせて、帰らせた。もうおまえと一緒にはいられねェ、サヨナラだ、って言ってな」

 「でもそれ、本心じゃないですよね」

 「本心、か……。まァ、本心であろうがなかろうが、いずれオレから言わなきゃいけないコトだったショ。ほっといたら勝手についてきちまう。そういうヤツなんショ、は。金城が言った通り、したたかというか強情というか。一度そうだって決めたら直進以外できない女なんだ。バレンタインの話のときみたいにな」

 「ついて行っちゃ、ダメだったんでしょうか」

 静かに話を聞いていた小野田が、そっと言葉を選ぶように口を開く。

 「ハァ!? 当たり前ショ、イギリスだぞ?」

 「ボクは──巻島さんがいなくなったとき、何度も『ここに巻島さんがいたら』って思いました。たった半年の中で、色々なことを教えてくれたから。心の支えになっていたんです。そんな巻島さんがいなくなって、不安でたまりませんでした」

 「小野田……」

 「二年もずっと一緒にいたさんは、ボク以上にそう思ったのかなって。ついていけるなら、ついて行きたかったんじゃないかって」

 「……」

 「あ、すみません!! ボク生意気なこと言っちゃって……」

 「いや……」

 「ワイ、小野田くんの気持ちも、巻島さんの気持ちもちょっとだけ分かります。大阪から離れて千葉に行くっちゅー話になったとき、彼女やないけど、友達と似た経験したことがあんねん。一緒にいてほしい思っとったし、ついてきてくれる言うとるけど、責任負えんし、連絡先だけ渡して別れたんや。あ、けどな、結局今も連絡取り合う仲やで! だからこそ、巻島さんも、別れんと、連絡取り合ったりすればよかったのにって思ってまう」

 「鳴子。言ったショ、あいつは真っすぐすぎるんだ。少しでも期待させたら、ずっとオレから離れられなくなるショ。オレよりいいヤツ見つけたときにも、きっとオレの顔を浮かべてためらっちまう。そんな足枷みたいな役、誰がやりたいつう話だ」

 「でも五年経った今も、巻島さんはさんが好きなんですよね?」

 「……」

 黙ったまま否定も肯定もしない巻島を見て、手嶋は言葉を続ける。

 「結局、お互いに足枷はめたままってことになってそうですけど」

 「だったら連絡先変えたりしないっショ。もうオレだけの問題なんだ」

 「あの、もしかして、なんですけど……」

 おずおずと杉元が手を上げる。

 「巻島さんを追いかけてイギリスに行ったから連絡先が変わってしまった、ということはないでしょうか。日本での携帯電話を解約してしまった、とか」

 「いや、まさか───それはない、ショ……?」

 「これまでの話を聞くとあり得そうなんスけど」

 「うん、うん……! ボクもそう思います!」

 「そのうち『たのもー!』つって、巻島んとこに来んじゃねェか?」

 「フフ、ありそうだな」

 「巻島さんの彼女、追いかける根性はありそうやしな!」

 「そうですよ、待っていたらさんのほうから連絡来るかもしれませんよ」

 「まだ諦めるには早そうですね」

 そうだそうだと盛り上がる九人を横目に、巻島はわなわなと震えだす。

 運ばれてきたばかりのトロピカルピーチジンジャーハイのグラスを打ち付けると、琥珀色の液体が波打ち、指先を濡らす。

 「おまえら楽観的すぎるショ!! オレはもう諦めるって言ってんショォ!?」

 しん、と場が静まり返った。

 隣の座敷やカウンターにまで聞こえたのか、店内から音が消えたようだった。巻島の舌打ちがやけに響く。そのまま腰をあげながらため息を吐き、口を開いた。

 「……あーあ、しらけさせちまったショ。悪ィな。久々に会えたってのに。オレちょっと外で頭冷やしてくるわ。田所っち、また青八木と鳴子の酒レースに付き合ってやるショ」

 そう言って便所サンダルに足を通すと出口へ向かう。そして引き戸に手をかけようとした瞬間、その扉はガラガラという音を立てて勢いよく開いた。暖簾の下から覗くスカートと足から、入ってきたのは女性であることが分かる。

 「たのもー!!!」

 「ショオ!?」

 その暖簾をくぐり抜けてきたのは、さきほどまで話題の人物であっただ。

 「裕介! よかった、ここで当たってた!」

 驚きで固まっている巻島を余所目に、は次々と話しだす。

 「わぁ、また髪伸びたね。私はこれくらいのときが好きだなぁ」

 自身の鎖骨よりもやや下のところに手を合わせながら、巻島の顔を覗き込む。

 「あれ? あの、私……です。高校の時お付き合いしていた」

 「んなことはワカってんだよ!! なんでここに……」

 「ああ、よかったぁ。きょとんとしてるから誰か分からなくなっちゃったのかと思った。あのね、裕介の家に電話かけたらここだって聞いて。話したいことがたくさんあるよ。私、来週からイギリスの大学院行くの。東京の大学でね、英文学科で常にトップ取り続けて、スピーチとかで色々賞も取ってね。ようやくいろんな人にイギリス行くこと認めてもらえた。でも、裕介に連絡したら絶対『そんなことしなくていい』って言うでしょ。そんなの悲しいじゃない。だから一人でもがんばれるよって、大丈夫だよって知ってもらいたくて。黙ってずっと努力して、ここまで来たよ。今なら私、裕介の隣に行けるの。嫌だって言われても聞かないし、ガンガン行くよ。また何か別の壁があるなら、ぶっ壊してあげる。何年かかってもいいよ。私は裕介の隣に行くために四年半もやってきたんだし、数年増えるくらいどうってことないの。あ、そうそう行くのはダラム大学って言って──」

 止まらないの口を塞ぐように、巻島は強く抱きしめて唇を合わせる。カウンターの客や店員が凝視しているが、そんなことはまるで気にも留めない。巻島を追いかけてきた金城がUターンして座敷へ帰ってくると、状況を聞きつけた皆が入り口のほうへと顔を出す。

 「なんやアレめっちゃ大胆やん、鼻血出るわ……!!」

 「頭までイギリスになっちまったのかあいつは」

 「心配して損しましたね」

 「冷たいこと言ってやるなよ今泉」

 「エンダァーーーイヤァーーーーー」

 「純太やっぱり歌うまいな」

 「ここだけハリウッドみたいだ」

 「巻島さん……よかった」

 「ズバリ、田所さんの言った通りになりましたね」

 杉元の言葉を合図に、全員が目を見合わせる。そして「たのもー」と声を重ねて笑った。


 
 

 「えっと……ショ」

 気まずそうに頬を掻きながら、巻島がの背中を押して座敷にいた面々に伝える。

 「あ、ど、どうぞ! 座ってください!」

 「おう巻島ァ、どいつが楽観的だって?」

 「ホンマやで巻島さん、オレらが言うた通りやないですか」

 「巻島はいつも悲観的すぎるんだ」

 「あ、せや、田中くーん!! 残り三十分、一人分オマケしてくれへん? 一杯だけでええから!」

 「店長に聞いてくるわー!」

 「たのんますー!」

 「いいもの見させてもらったからオッケーだってよー!」

 「早っ! おおきにー!!」

 「邪魔しちゃってすみません、ありがとうございます」

 「噂をすればって感じだったんで、こっちこそリアルさん見られて嬉しいです」

 「えっ、なんか私の話してたの?」

 「主に巻島さんがノロケてただけっス」

 「今泉おまえうるさいショ!!」

 「オレは事実を述べているだけです」

 「わぁ、田所くんも金城くんも久しぶり!」

 「マイペースな人なんですね」

 「いつも通りショ」

 「あのね、引っ越してから田所パン遠くなっちゃって。うさぎパン、また食べたいと思ってたんだよ。今週いっぱい実家にいるから時間見つけて買いに行くね」

 「なんだ、引っ越してたのか」

 「そうそう、大学がうちから電車で三時間半だったから、一人暮らし始めたの」

 「長い間見なかったから心配してたぜ。待ってるから、巻島と来いよ」

 「ごめんね、実家帰るの自体すごく久々で。あ、ねえ裕介いつなら行ける?」

 「、実家帰るの久々ってどういう──」

 「細かいことは気にしない! 裕介は色々気にしすぎだからね」

 「いや細かくないショ、、詳しく話せ」

 「どうしても気になるなら後にしようね!」

 「チッ、その言い方やめろっショ」

 「なんや巻島さんが手玉に取られとる。頭撫でられとるし!」

 「懐かしいな、この光景」

 「本当に久しぶりなのかってくらい、自然ですね」

 手嶋が田所に耳打ちする。

 「それくらい、が巻島にとって当たり前の存在だったってことだ」

 「なるほど」

 「何コソコソ話してるんショ」

 「いえ、別に?」

 目を半月型にして自身を見てくる仲間たちに威圧をかけるも、まるで効果がないようだ。

 「くそォ」

 「裕介どうしたの? 拗ねちゃって」

 「だからこいつらの前でそういうの、やめろっショ!」

 「巻島さん……」

 「小野田までそういう目で見るなショ! もう二時間経ったぞ会計だ!!」

 「鳴子ぉ、このあと予約ないから延長してもいいってよ」

 「田中くん、気ィ遣てくれてありがたいねんけど、スマン! アツアツな二人の邪魔したらアカンやろ。お開きにして二人にしたらな」

 「それもそうか。じゃ、会計伝票持ってくるわ」

 「はいな」

 「裕介、できる後輩を持ったねぇ」

 「カッカッカー! さん、話分かる人でええわァ」

 「チッ」

 巻島が小さく舌打ちをするも、それを怖いと思う者はこの場に誰もいない。

 「一人三千円! 細かいの出せる人から出してもろてもええですかー! お釣りいる人は後にしてやー」

 巻島は鳴子にちょうど三千円を押し付けるように渡すと、靴を履いた。隣でミュールのストラップを留めるを、愛おしそうに眺めている。立ち上がろうとする彼女へ、自然な動作で手を伸ばす。その手へ指先が重なると、強い力でぐっと持ち上げた。

 「裕介、王子様みたい」

 「ハァ!? な、何言ってんショ、バカ」

 「バカップルだな」

 「田所っち!?」

 「違いないスね」

 「う……」

 「ボク、こんな風に焦ってる巻島さん、初めて見た気がします」

 「ああ、ちょっと親近感沸くよな」

 「はい!」

 「…………」

 ニコニコしている小野田と手嶋へ言い返してもボロが出るだけだと思ったのか、巻島は何も言わずに額へ手を当てて首を横へ振る。そしてすぐに右手でキャリーケース、左手でを引くと、一足先に外へと出た。

 店の外で十一人の若者が輪を作る。

 「今日は集まってくれてありがとう。通りにいると邪魔になるから、一本締めして解散しよう。二次会行く奴は鳴子が店を抑えてくれているそうだ。では、御手を拝借」

 全員が胸の高さに両手を上げる。

 「よーお!」

 パンッ、と小気味好い音が響く。その音を引き金に、鳴子が手を上げて

 「二次会行く人ー!」

 と呼びかける。巻島と以外が群がってゆく。鳴子の周りに大きな島が一つと、そこから離れた小さな島が一つ生まれた。

 「オレはこいつと話あるから、今日は行くショ」

 巻島はと手をつないだまま、皆に別れを告げる。

 「ああ、積もる話もあるだろう。また会おう」

 「あァ、またな」

 「巻島さん、末長くお幸せに!」

 「小野田くんそれ結婚するときに言うやつやで」

 「あれ!? そうだっけ!!」

 「まー似たもんやからええか!カッカッカ!!」

 「巻島さん、また日本来たら飲みましょう!」

 「おう」

 「店で待ってるぜ」

 「あァ、行くとき電話するショ」

 「うさぎパン作っておいてね!きなこ揚げパンも!」

 「おう、大量に作っとく」

 全員が巻島に声をかけて二次会の会場へと向かってゆく。

 数分後、「鶏一番屋」の前には巻島との二人だけが残された。

 「んじゃ、ま……行きますかオレらも」

 巻島がと手を繋いだまま歩き始める。の歩幅と速度を知っていることが当然のような歩調。は下を向いて、その“当たり前”に涙を滲ませながら笑った。



 ふたりの最寄駅は同じだ。店から駅へ向かう間は、今まで離れていたぶんの時間を取り戻すように、じっくりと歩いた。が巻島へ質問を投げかけ、それに二言三言程度で返す。それを繰り返しながら歩いた。

 「あ」

そこへ、一つの公園が現れる。巻島は思わず声をあげた。

 「わぁ、この公園懐かしいね。裕介とよく来たね」

 「あァ。……ちょっと寄ってくか?」

 「すごい、私いま同じこと言おうと思ってたよ」

 巻島は得意そうな笑みを浮かべると、自販機の隣のベンチに近づいてゆく。ふたりがよく来ていた頃、まだ青かったプラスチックのベンチは、色あせて水色になっていた。ベンチの反対側には、街灯が一つ。夏の虫が集まって一つの柱を作っている。巻島はベンチのそばにキャリーケースを置くと、手をつないだままベンチへ腰掛ける。少し座りにくそうにしたが照れたように笑う。

 「手」

 「あ……悪ィ」

 決まり悪そうな表情で指の力を緩めた巻島の手を、がギュッと握る。

 「離してなんかあげない」

 青白い街灯に照らされたの瞳がキラキラと輝く。

 「ご存知の通り、諦めが悪いんですよ、って人は」

 「……あァ」

 「言葉で何度も振られたってガンガン行くよ。裕介の本心なんかお見通しなんだから」

 「クハ、そいつは恐ろしいな」

 「だってずっと、ずっとずっと見てたからね。裕介が私に気づく前からも、その後も、今だって」

 「なんか……それストーカーみたいショ」

 「自覚してる。だって追いかけるために四年半も英語の勉強したんだよ。もう執念だよ。家も出て奨学金で大学行ったし。昨日ようやく親にも認めてもらえたの。そんなに好きならって。でも実際は不安だった。私がずっと一方的に好きなだけなのかなって。裕介から何の連絡もないから、本当にこの道を進んでいって大丈夫かなって。会った瞬間、間違ってなかったなって思えたから、よかった。裕介はまた格好良くなったし、なんだか大人になった」

 「んなことないショ。まだまだ青臭いガキさ」

 「でも、あの頃より壁を乗り越える方法を知ってるでしょう」

 「シーツとタオル繋げるより簡単な方法があるのは確かだな」

 「ふふっ。……だからさ、もう一回、私と恋愛しましょうよ」

 夏の生ぬるい風が二人を通り越してゆく。首を傾げたの髪が靡き、彼女の顔を半分覆った。

 「今さら、かな?」

 がもう一度手を強く握ると、大きな手がそれ以上の力で返してくる。

 「今から、始まるんショ」

 そう言って巻島が口づけると、はあの夜のときのように笑った。







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