自転車




異国語においては、名詞にそれぞれ男女の性別あり

然して、自転車を女性名詞とす。




 私は、欧州の仏国から来た一台のロードバイクです。もっとも、物心のついた頃には日本の自転車売りの店におりました。

 ここでは、店頭に置かれております。お店の看板商品として胸を張っているのです。色も形も美しいと言われている私を見て、素敵だ、と近寄る殿方は多くいらっしゃいましたけれど、その近くに置かれた値段表を一瞥すると、すぐに諦めるのです。潔く諦めるならまだしも、店内でグローブやチェーンオイルだけ購入したりして、「あくまで元々買うつもりはなかった」と見栄を張るような、みっともない殿方には閉口します。


 ここの窓からは一本道が見えます。とくに特徴のない、一つの町の、一つの道。移りゆく木々の色で、どれほど長いこと自分が居座っているか、嫌でもわかってしまいます。怪我をした仲間が運ばれてきたり、私よりも後に納品された若い子が入ったりしました。彼らはどんどんと過ぎ去り、今では私が一番の古株です。かろうじて、日に焼けるような季節は過ぎ去っていたので、自慢の赤は鮮やかに輝いていました。

 入り口のドアから少し冷たい空気が入るようになったころ、若い男の子が、私を物欲しげな顔で眺めては、毎日店の前を通りすぎていくようになりました。毎朝七時と、毎晩六時ごろ。その時分になると、自転車で前を通り過ぎながらも、こちらを見つめているのです。白い自転車に乗って。遠目で見ても、その自転車に傷みが来ていることは分かりました。人では気づかなくとも、同士ですもの、痛みを耐える声が聞こえるのです。ああ苦しい、ふう辛い、でもこの子を支えられるのは私だけだから、と嘆いています。なんて美しい信頼関係でしょうか。男の子もそれを分かっているのか、私を見はしても近寄るまでには至りませんでしたし、労わるように彼女を扱っていました。

 物事が変わったのは翌週のこと。男の子がこちらの店の中まで入ってきたのです。先日よりも遥かに状態の酷そうなパートナーを連れていました。彼女へ、大丈夫ですか、と声をかけたのですが、黙ったままでした。ひどく疲れているようです。

 私が気を遣うまでもなく、通司さんが近づいていきました。男の子は知られたくないことのように隠しましたが、見つかってしまいます。そして丁寧に彼女の状態を見ると、無情にも「もう乗れない」と告げました。人が見てもそうなのですから、店内の仲間たちには尚更、彼女がひどく消耗していることは明らかでした。この状態で、よくここまでこの子を届けたものだとさえ思ったほどです。

 捨てる覚悟、という言葉で通司さんが男の子を煽ります。人は無慈悲なものです。私たちが何も分かっていないと思って、捨てるだの、辞めるだの言うのですもの。悩んだ末に私を購入することにしたその子は、労わるように元の相棒を撫でました。そして持って帰ってから処分する、と告げたのです。長年支えてくれた相手になんてひどいことを、と思わず口にすると、彼女から否定されました。

 彼は自分を飾るつもりなのだ、と彼女は言います。この子は少しひねくれているから、照れ臭いことは言えないけれど、そうするつもりなのだと。私は、彼女が最期に夢を見ているのだと思いました。私たちロードバイク、そんなに小さなものじゃないのに、そんな場所、自転車屋でもあるまいし……。 

 けれども実際、彼女は彼の寝室に飾られたようでした。数日後に私が納車された家は、豪邸と言ってさしつかえのない、立派なお家でした。表札には巻島とあり、男の子の名前は裕介と仰るのだそうです。私については、彼が毎日乗れるようにと、広いガレージに車と置かれるようになりました。彼女の姿はこの場所からは見えませんが、外に出て家の窓を見ると、彼女の美しい青がキラリと光るのです。


 私と初めてレースへ出る朝、彼は会場まで、私をゆっくりと漕ぎながら向かいました。なんて丁寧な乗り方をする子なんだろうと、感心しました。彼女の姿を見ていた私は少し不安な思いでしたが、その気持ちを拭い去るような走り方でした。

 そう思ったのも束の間。彼は小さな声で私に話しかけるとレースへと向かい、前の方々を追いかけるようにスピードを出し──登りに入ってからの豹変した様子と言ったら! なんて面白い子なんだろうと、昂りました。そして私のことを「いいヤツ」と評価してくださったのです。その期待に応えたいと、私、目一杯、努力しました。ぐんぐんと順位を上げた彼は、一番に頂上へたどり着くと、拳を握って喜びました。

 帰ると、彼女が窓際で待っていました。私は彼女へ向かって叫びます。

 「こんないい子はほかにないわ。私たちは仕合せだわ。いつまでもここにいて、この子が目指す場所どこへでも、連れて行ってあげたいわ」

 窓から見える彼女は、黙ってうなずきました。




注釈

Velo(Velocipede) 男性名詞

Bicyclette 女性名詞

本作は太宰治「貨幣」のパロディ作品です。







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