雨粒は膨れ上がり、やがて落ちる。




 雨のカーテンで巻島が見えない。

 バスの窓を流れてゆく水滴がモザイクを作り出し、曇り空は車内にいる私を反射させてしまう。男勝りで可愛気のない顔。これだから雨は嫌いだ。晴れていたら、あの色あざやかな髪が青空を泳ぎ回って、緑から青のグラデーションがそれは美しく映えるのに。

 不幸中の幸いはただひとつ。巻島が黄緑色の派手なレインパーカーを着てくれていたこと。かろうじて、どこを走っているかは分かる。バスの少し後ろ。ああ、だいぶ距離が開いちゃった。今日はもう見えないかも。いつもそう思うのに、裏門坂で必ず追い越される。

 暫定一位と思われていたバス選手ですが、坂が得意な巻島選手に抜かされてしまいました。なお、本日は雨のためか調子が振るわず、コースレコード更新には至りませんでした。バス選手の近くで応援をされていたさん、いかがでしたか? あ、すみません。ぶっちゃけ巻島選手の応援してました。


 「巻島くん、おはよう」

 「あ…えと、おはようございます」

 「同じクラスのって者だけど」

 「それは、分かるショ」

 「敬語だったから知らないのかと思った」

 「……あんまり話したことないから正直どう返したらいいか、わかんなかったショ」

 「そっか。急に話しかけてごめん」

 「いや謝る必要はないショ」

 「あの、今週、私たち週番だからさ。それで。えっと……よろしく」

 巻島が頷く。今日、月曜日から金曜日まで。移動教室でカギ閉めるのは私。奇数時間の黒板消しは巻島で、偶数時間は私。じゃんけんで負けたほうが日誌にしよう。そう言ったのに、別にオレが書いてもいいけど、って。このチョキの行方はどうしようか。とりあえずブレザーのポッケにしまった。あーあ。うまく会話を続けるのって難しいや。じゃあお願い、って日誌渡すしかできない。色気のカケラもない。せっかく巻島と話せるきっかけがあるのに、なんでこんな感じになってしまうのか。取り決めだけが業務的に決まって、終了。もっと可愛気のある女子だったら話を広げられたのかな。バスから見たよぉ、雨なのに自転車早くてビックリしちゃったぁ、すっごーい、えらぁい、なんつって。無理。そんな自分、想像しただけで吐きそう。



 鈴木先生、黒板の上の方までギッチリ書きすぎだわ……背伸びしても微妙に届かない。軽く飛べば消せるか。教壇の上で軽く膝を曲げて、よし、って思った次の瞬間。後ろから現れた巻島がサッと消してしまった。

 「届かないなら呼べばいいショ。同じ週番なんだからな」

 「ああ、あ、あ、ありがとう」

 「ビビりすぎっショ」

 巻島が笑う。クハ、って歯を見せながら。歯並びが綺麗だ。僕ら正しい位置に収まってますって感じで歯が整列している。巻島は笑うと右目の横にかすかなシワが寄るんだ。今、気づいた。なんだか色っぽい。男に色っぽいっていうのはおかしいかもしれないけど。

 「偶数時間だしなぁと思って」

 「それはそれ、これはこれだろ。あとスカート履いてんのにあんま背伸びしたりすんな」

 「お見苦しいものをお見せして申し訳ない」

 「いや、そういうわけじゃ……むしろ……な、なんでもないショ!! 授業始まるから席もどるわ!」

 授業が始まるまでまだ五分も残っているのに、巻島は自分の席へスタスタと戻ってしまった。足が長いから早い。私があの席に行くまでに必要とする歩数の半分くらい。そういえば巻島、妹がいるんだっけ。別のクラスの男子がこっち来てたときに話してた気がする。だからかな。スカートなのに背伸びするなとか、ああいうこと言っても気持ち悪い感じにならないのは。鈴木先生に言われたらキモすぎて引く。あ、あれはオッサンだからか。でも同じクラスの他の男子に言われたとしても、巻島以外だったら嫌だな。もしかしたら惚れた弱みってやつかもしれない。

 あ。巻島、席に戻っても耳がまだ赤い。色が白いから遠目でもよく分かる。メッシュの色と同じ。綺麗だ。女子顔負けの美肌だもん。それもあって色っぽいのか。じゃあ、やっぱり巻島に似合う形容詞は色っぽい、かな。



 「姐さァん」

 「ああ、大鳥居さん。ゆっくりでいいよ」

 「ごめんこれ巻島くんに渡してくれる?」

 視聴覚室から最後に出てきたのは、小走りに私へ駆け寄る大鳥居さんだった。身長わずか百四十七センチの、小柄な女の子。黒髪のセミロングが女子って感じでかわいい子だ。右手に持っていた派手なペンケースを私の手に押し付けてくる。

 「いいけど、なんで? 同じクラスでしょ」

 「そうなんだけど。姐さん仲良いっぽいじゃん」

 「え?」

 「さっき黒板消してるときとか、巻島くん普通の喋り方してたし」

 「……むしろ普通に喋ってない巻島くんってどんなの?」

 「こう…『オレかい?』みたいな、ちょっと気取った感じっていうか」

 「そんなだっけ」

 「そうだよ。姐さんだけだよ、四組の女子で巻島くんと普通に話せたの」

 「……まともに話したの今朝なんだけど」

 「え、うそぉー? めっちゃ自然だったから仲良いのかと思った」

 「いやホント、朝に今週の週番よろしくって話したのが初めてくらいだよ」

 「じゃあよっぽど波長合うんだねー」

 「え、っと」

 「ま、そういうことだからコレ。巻島くんの忘れ物。あたし、ちょっとトイレ行ってから戻るね」

 「あぁ、うん」

 中をもう一度確認して、カギを閉める。

 仲良い、ように見えた、のか。さっきの黒板消しのやり取りで。んー、正直、悪い気はしない。けど、本当にそんなに話したことないはずだ。三年になって初めて同じクラスになったし。委員会も全部違ったし。なのに、大鳥居さんが言う「普通じゃない」巻島に、ピンとこなかった。ほかの女子と話してるときってどんな感じだっけ。うーん。そもそもあんまし女子と話してるイメージないな。ああ、この前マネージャーの女子とグラウンドで話してたっけ。あー、あんな感じかぁ。お嬢ちゃん、みたいなこと言ってた。あのキザっぽい感じね。分かった分かった。思い出した。そうそう。お嬢ちゃんって言ってるけど二個しか違わないじゃんかって、ちょっと笑えたんだっけ。けどまぁ、春先は先輩風吹かせたくなるよね。三年って先輩の頂点だし。そういや、私も部活で一年相手にちょっと年上ヅラしたわ。新入生歓迎会のとき。巻島のこと笑えないや。

 でもそうか、巻島、私には格好つけないってことか。それって、恋愛対象から外れてる感じが否めない。まあ、そうだよな。私──“姐さん”だし。一年の秋からずっと言われてるから、もう修正しなくなったとはいえ、三年で姐さんって言われると留年してる感があって恥ずかしいなって最近思った。でも面倒臭いから、やっぱり修正はせず放置してるし、もう諦めてるけど。

 てかこれ、今見たら巻島のペンケース、エミリオプッチじゃん。ブルジョワか。あ、本物のブルジョワなんだっけ。お兄さんがヨーロッパで洋服のデザインしてるって誰かが言ってた。まー、派手なペンケースだこと。私のペンケースより可愛くない? 私が使ってるペンケース、無印良品の真っ黒なやつなんだけど。落ち着かんわ、こんなんが授業中目に入ったら。そういや、メグちゃんのペンケースもすごいよな。あれウサギのぬいぐるみだもん。機能性ゼロでしょ。シャーペン一本と赤ペン一本、消しゴム一個しか入れてなかった。しかも消しゴムの形がイチゴ。シャーペンのノック部分にはサンリオのキャラ。ああいうのが女子らしくて、可愛気あって、男子の恋愛対象になんのかな。私がああいうの持ったら……交通事故に遭って記憶飛んだと思われるわ。


 「巻島くん、これ。忘れてたの大鳥居さんが見つけてくれたって」

 「あ! 悪ィ、探してたんショ。助かった」

 「お礼なら大鳥居さんに言っといて。たぶんもうすぐ戻ってくるから」

 「ケド、渡してくれたのはさんショ。ありがとな」

 「巻島くんはいい子だね」

 「何ショそれ、母親か」

 「ふふ」

 母親になったり姐さんになったり、私って忙しいやつだな。巻島はすぐにペンケースからシャーペンを取り出すと、日誌を書き始めた。私だったら放課後にぶわって書いて終わらせるけど、コツコツやる派なんだな、巻島は。偉いなぁ、と思ったら口に出ていたみたいで、「何が」って巻島に聞かれる。毎回授業終わりに書いているのが、って答えたら、「放課後は部活あるからな」って返された。

 「それなら午前分は巻島くんがやって、午後は私がやろうか。朝日誌とってきてもらうのと、四限までは巻島くん。昼休みに交代して、五、六限と連絡事項と、先生に渡すのが私」

 「そりゃオレとしてはありがたいけど、日誌の担当者名どうする?」

 「午前巻島、午後って書いといて、なんか言われたら明日から変えればいいよ」

 「さん、強気だな」

 「一年時から髪の色が緑の人のほうが強気でしょうよ」

 「クハ、言えてる」

 あああ、私、本当に可愛気ない。もうちょっと言い方ってもんがあるでしょうが。私が悶々としている間に、巻島は右肩下がりの文字で「日本史B 視聴覚室。特記事項なし」と記入し終わっていた。日誌をパタンと閉じて渡される。頷いて受け取る。昼休みが終わるまであと四十分。巻島はあんぱんと牛乳の入ったコンビニ袋を片手に教室を出て行った。あれ、大鳥居さんにお礼は? ああ、ちょうど来た。ぷぷ。気取った喋り方が聞こえる。──大鳥居さんダヨネ? さんから聞いたんだけど、オレのペンケース、届けてくれたのカイ? ありがとう。……何あれ。ぷぷぷ。そっか、あんな感じかぁ。んん。大鳥居さん可愛いし、格好つけたくなるよね。私もいつも以上に姐御感出しちゃうことあるし。うんうん。分かる分かる。

 ……分かってたまるか。ばか。女として私を見てくれ、巻島。私にも格好つけてくれよ。



 晴れの日は、巻島がよく見える。

 バスで一番後ろの席は、特等席。とくに窓際。だからいつもここに座ってる。私は始発駅からそれなりに近いところから乗るから、大抵空いてるのだ。ここからは、追ってくる巻島も、追い抜かしてゆく巻島も見える。巻島はいつも前を見ている。バスが見えるとニヤリと笑ってスピードを上げる。けど、平地だと遅かった。遅かったっていうのは、今はそれなり、だと思うから。いや、自転車競技の選手にそれなりとか素人が言うのは失礼って分かるけど。一年の頃、ほんと遅かった。裏門坂のあたりで、ようやくまた姿が見えたなってくらいだった。バスを追い抜かす、なんて、全然できてなかった。たまに他の選手が一緒に走ってたけど、巻島にペースを合わせてあげてるって感じだった。でも二年、三年って上がってきてからは、どんどん追い越すようになって、今では常に一位だ。努力してきたんだなって思う。巻島、私が一年の頃からずっと見てるなんて知らないんだろうな。早くなったねって言ったら、どんな顔するだろう。いや、言わないけど。


 バスから降りて下駄箱まで行くと、ちょうど自転車を置いてきた巻島と鉢合わせた。

 「早いな」

 「巻島くんも。朝練?」

 「あァ。それと日誌」

 「ありがとう。そうだ、昨日の、なんか言われた?」

 「なんで半分かってのは聞かれたけど、理由話したらイイつってたショ」

 「よかったよかった。じゃあ金曜までこれで」

 「おう」

 巻島と一緒に階段を上がる。職員室へ行く巻島とは、二階で分かれた。今日、昨日より少し長く話せた。嬉しい。いい一日になりそうだ。天気もいい。巻島の髪が映える青々とした空。みずみずしいレモンみたいな黄色いジャージも似合うだろう。授業が始まるまで教室の窓から眺めよう。受験生だし、一応、単語帳片手に。よし、窓開け──

 「さん、自転車好きなの」

 朝練に行ったはずの巻島がガラガラと教室の引き戸を開けて入ってきた。

 「あ、あれ巻島くん、部活行ったのでは」

 「日誌、机に入れてから行こうと思ってたっショ。汗で濡れると面倒だからな。で……自転車好きなの?」

 「いや、その、窓を開けて風に当たりながら単語帳を見ようとしてて。天気いいし」

 「へー」

 「そうそう」

 「……………バスで、」

 巻島は左耳に髪をかける。ああほら、色っぽい。目の下のホクロが露わになると、一層。

 「一年の頃からバスで見てんなって思ってたけど」

 「え、ば、バレて」

 「バレるも何も、そりゃ、バスの後部座席でずっと後ろ見てるヤツいたら目立つっショ」

 言われてみればそうか、と思った。でも、何でもないような感じで接してきてたから、自転車側からはよく見えていないものなのかと。だから、全部知ってましたよ、って言われると焦る。てか恥ずかしい。なァにが姐御か、母親か。クール“ぶってる”感でちゃったじゃん。実際そんなにクールな性格でもないんだけど。こう、高校三年間で築き上げてきた私のキャラがあって。それがダルマ落としみたいに、足元から巻島に崩されていく。

 「バスが先に行っちまってさ、そのあと、オレが見えるとすげー嬉しそうな顔するショ、さん」

 ああ、巻島が持っているのはダルマ落とし用のハンマーじゃなくて工業用のハンマーだ……。もう止めてほしい……。本物のダルマ落としなら、もう落とすところ残ってない。頭だけの状態だ。逃げたいけど教室の奥にいる私と入り口にいる巻島との対決って、どう考えても不利だ。って、私そんなに嬉しそうな顔してた? 巻島が後ろから見えたとき。無意識だ、そんなの。いや無意識のほうが恥ずかしいケースだわ、コレ。

 「だからタイム伸ばせた。感謝してる」

 「ま、巻島選手のタイム向上に貢献できたようで何よりです」

 「何かのインタビューかヨ」

 「ちょっと、巻島から見えてると思っていなかったので、ちょっと、あの、ちょっと」

 「逃げようとしてるっショ」

 「うぐ」

 巻島がいないほうのドアからならそっと女子トイレへ逃げられると思ったのに。なんだこれ蜘蛛の巣みたい。巻島の視線がベタベタ絡んで離れてくれない。もうこのエリアから逃がさないぞって言ってきているみたいだ。

 「言うタイミングずっと逃してたからさ、週番で二人になれてよかったショ」

 「そ、そう、そうかい」

 「何ショその婆さんみたいな言い方。クックッ」

 滅多に受けない精神攻撃受けて堪えてるんだって。姐御キャラってさ、いじられないんだわ。周りが勝手に都合よく解釈してくれるから。あ、さんがこっち見てる……それは私がしっかりしてないからなんだわ、とかさ。俺のほう見てるけど、まさかあの姐御なさんが俺を好きなはずあるまい、とかさ。その都合いい解釈を自分の中でまとめちゃって、こっちに踏み込んでくることなんて滅多にないの。今、巻島はその線をヒョイって越えてきて、「おまえ見てたっショ」って私を指差して言うくらいのことをしたの。だからこんなになってるの。ああもう、分かってるって顔紅いんでしょ、でも大丈夫、私は巻島より色が黒いからわかりにくいんだ。

 「さん、顔真っ赤だな」

 この男、攻撃の手を休めることを知らない。思わず腕で頭を隠してしまった。逃げられないなら蜘蛛の巣の主を追い出すまでだ。反撃、開始。

 「巻島くん、いいかい、朝練をな、朝練をサボっちゃいかんよ」

 なんてなさけない反撃だろうか。美味しんぼじゃあるまいし。

 「あァ……そうだな。じゃあ行くわ」

 「そ、そうするといいよ」

 「ちなみに今日の朝はミーティングだから、そこにいても何も見えないショ」

 「じ、情報のご提供ありがとさん」

 机に日誌を置いて出ようとした巻島がまた戻ってきた。

 「あ。そうだ」

 「なんでしょう……」

 「明日の朝、また雨なんショ。大雨。だからオレもバスに乗る」

 「そっか」

 「悪ィな」

 「いや、全然……むしろ、いつも雨のときもちゃんと走ってて偉いなって、どんどん早くなってすごいなって思ってて……あ」

 もうダメだ、墓穴ばっかり掘ってる。言えたじゃん私。巻島くん、雨なのにすっごーい。えらぁい。

 「さん、やっぱおもしろいっショ」

 穏やかな顔をした巻島と目が合う。そういう顔も似合うのは、やっぱり妹がいるからなのかな。それとも最近おもしろい後輩が増えたって言ってたからかな。そんなんどっちでもいいか。ますます色っぽさと大人っぽさに拍車のかかる巻島。ううん、けしからん。

 「じゃ、また昼休みに日誌渡すときにな」

 「うん」

 「黒板、届かなかったら言えっショ」

 「うん」

 「あと、あの…アレだ。担任の……小清水の赤ペンは気にするなショ」

 「うん?」

 「じゃ」

 巻島はそういうと教室を出ていってしまった。日誌おいてすぐ行くつもりだったならミーティング遅刻しちゃったんじゃないだろうか。あと、小清水先生の赤ペンって何だろ。日誌のことかな? 気にするなって言われると気になってしまう。私、曲がった人間だなぁ。




 これか。

 小清水先生、あいつマジ恋愛脳じゃん。

 昼休み、巻島は私に日誌を渡すともう一回「……小清水のコメントは気にするなショ」と念押しして去っていった。私には巻島の顔が、気にしてほしいって言っているようにしか見えなかったんだけど。

 で、昨日の日誌開いたら馬鹿でかい真っ赤な相合傘。担当欄、「午前 巻島/午後 」って書いてあったところに、ドーンって。裏にまで透けてるんですけど。真ん中のスラッシュが中棒にされている。私たちの名前の上には大きな小間。石突はご丁寧にハートマークだ。小学生の落書きかよ。巻島が言いたかったのってこれかぁ。これかぁ……。これをあの顔で、気にするな、かぁ……。ふぅん。

 午後の授業中、巻島を見てたら目が合った。思わず目をそらしたけど、また見てみたら目が合った。なんだこれ、小っ恥ずかしい。昨日までは、普通、だったのに。私だけが巻島を見ていたはずなのに。ああもう、なんだこれ。解放してくれ。クールな姐御に戻らせてくれ。そりゃ昨日は女として見てくれって思ったけど、だからってそんな、急な。小清水先生に相合傘書かれたくらいで意識しちゃダメだよ巻島。そういうのは中学生で卒業しときなさいって、お母さん言ったでしょ! こういうこと言ったら、また母親かよってツッコミが入れてくれるかも。想像して、少し嬉しくなってしまって、もう一度巻島を見る。ああ、また。ああもう、だから、また。目が合ったじゃんか。



 巻島の予報通り、水曜日は土砂降りだった。私より三駅前のバス停で乗った巻島は、私がいつも座っている特等席にいて、私を見つけると手を上げてくれた。おはよう、以外の会話をすることなく、ただぼうっとふたりで並んで座っていた。高校に近づくにつれて乗客数が増えていき、ぎゅうぎゅうと押された人たちが後ろまでミッチリと詰まる。チラッと巻島の顔を見ると、うげ、って顔してた。自転車はこういうのないもんね。バス停、前のほうでよかったね。慣れてない人からすると大変だよね。

 「さん、我が子を見守る母親みたいな目ェすんのやめろっショ」

 「ごめん。巻島くんがあまりにも『うげ』って顔してるから思わず」

 「慣れてないンだから仕方ないショ」

 「うんうん」

 「だーかーら、やめろっショ」

 「ごめんごめん」

 巻島がため息をついてから、ふっと笑う。仕方ないなぁって顔。私が母親みたいな顔するって言うけど、巻島だって、そういう、年上みたいな表情するじゃんか。そう思ったけど私は言わないでおいた。言ったら巻島、意識しちゃって、もうそういう顔見せてくれないかもって思ったから。

 バス停に止まるたび、無理矢理乗ろうとしてくる人たちが圧迫しては次のバスをお待ちください、って言われて引き下がっていく。それでも乗ろうとする人たちは一定数いて、バスはいつもよりだいぶ遅く学校へついた。屋根のあるバス停はゴソゴソと傘を取り出す人たちでいっぱいで、私たちもその群れの中へ飛び込む。

 「あーっ! 傘、バスん中忘れちまった」

 「ええ? 今なら走れば間に…合わないなあれは。あとでバス会社に電話してみな。保管しておいてくれるよ」

 「さん、まるで忘れたことあるみたいな言い方するショ」

 「ご名答。そして巻島くん意外と忘れ物するね。昨日のペンケースといい」

 「あれは……」

 「巻島くん、お兄ちゃんみたいなところと弟みたいなところあるね」

 「兄貴と妹いるからかもな」

 「ああ、それで」

 屋根の外は大雨。傘を忘れた巻島を置いて、生徒が次々と校舎へ向かっていく。私が傘を広げても、巻島はついてこようとしない。

 「もう。ほら、行くよ」

 「え、あ、ちょ」

 巻島のシャツを引っ張って連れていく。前にはいろんな色の傘がいて、灰色の空を染めている。ピンクと水色の花柄、黒と白のドット、ビニール素材のピンク、青とベージュのチェック、白いハートの刺繍が入った紺色。これはこれで綺麗かもしれないと思えたのは、巻島が隣にいるからかな。ねえ、巻島。小学生みたいな相合傘も、悪くないかもね。







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